だ。こうしたものが合理的精神を欠いているということは、全くこの実証的精神の欠如、従って又本当の歴史的認識の無能から来る不可避な結果に他ならない。
さて科学的精神に於けるこの生命物質に相当する実証的精神こそ、技術的精神と呼ばれるべきものである。実証的精神は、実験検証の精神だ。だがここでも吾々は之をラボラトリー的規模に於て理解するに止まってはならぬ。之を社会的生産機構のスケールに於て理解しなければならぬ。すると実験は産業と社会的に一つづきのものであることに気がつく。之は人間的社会実践の原型なのだ(社会人の政治的活動としての実践も亦勿論この系列にぞくする)。之はだから産業の精神だ。だから之は技術的精神になるわけなのである。
真実な理論的思考は、社会的な現実に於て実践、検証、され得ねばならぬ。そうした意味での実験によって保証されなければ、リアリスティックな真実ではない。現実性がない。そういう現実性があって初めて、その真実は実践的な価値があるということになる。之は実証的精神――予見するために見る――のモットーにぞくする。だが、こういう思考を秩序立てるための用具としての論理的諸範疇は、又それ相
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