科学やがて社会科学)の概念を再検討して見ることによって、之が新しい意味を得て来るように思う。
普通、科学は真理の認識[#「認識」に傍点]であるとされている。真理とか認識とかいうもの自体はごく実践的に又技術的にさえ規定されるとしても、要するに科学は真理の認識に帰するとされている。だから吾々は科学的認識を用いて改めて生産にも資するということになる。実験も専ら理論を検証するためにあるとされている。併し科学は元来、物を造るもの、物的生産を目標とするもの、と考えて悪いという理由はないようだ。
電子核の人工崩壊、元素の人工転換・の実験が莫大な工業用エネルギーの獲得を窮極目的とするかも知れないなどと云うのではなく、この実験自身が、粒子や元素の製造である。抑々之はキュリ夫妻がラジウムを取り出したことに始まる系統の実験であるが、夫妻のしたことは始めてラジウムを生産したことだ。之が即ちラジウムの発見[#「発見」に傍点]である。夫妻はラジウム製造というパテントを取らなかったために、アメリカのラジウム生産業者に貴重な自由を与えて了った。派生的な実験はとに角として、実験とは原則としてこういう物の生産[#「物
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