いるが、一体生産力は何で計られているのか。熱は温度で計られる。その指表を与えるものは水銀やアルコールである。錘数や高炉数や出炭高、発電量、等々及び生産物の品質の量的決定、は或る指表であり、之によって生産力が夫々の側面から表示されるのだが、この物的生産力の量的表示の総合によって決定される量(但し之は質を伴わなければ実現し得ない)の如きものが、社会の技術水準、即ち技術、と常識的に云われているものではないか、と考える。
だからテクノクラットが生産力をエネルギーという量的なものに解消しようとしたのは、間違ってはいても、意味はあったかも知れない。とに角技術を物体とか世界や領域とかとして、云わば一種の唯名論や実念論で片づけることはカテゴリーとしてまず批判を要する。技術を物的生産力水準という風に考えれば、労働手段の体系も、労働力も、その資格づけ(Qualifikation)について、技術と呼ばれることが尤もなものとして説明出来そうである。
さて以上のことは、要するに技術の概念が生産の力[#「生産の力」に傍点]の尺度を指すのだということで、一面あたり前すぎることにもなるが、併し次に科学(特に自然
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