の生産」に傍点]ではないだろうか。物を生産するとは、どんな場合でも勿論エネルギーや物質を新たにつけ加えることではあり得ないから、物を一定の目標物へ変化させることだけで即ち生産なのである。
さてこの生産過程を或る程度自由に、即ち条件の変化と共に変更し得る形で、反覆実行出来る場合、それを法則[#「法則」に傍点]の認識[#「認識」に傍点]と云うのであろう。だから認識がなり立つ時は、すでに物の一定の生産が行なわれている時である。もし一般的にそう云えると想定するなら、科学的認識はつまり科学的な「物の生産」の一結果に他ならぬ、と云った方がいいのではないだろうか。すると、認識は科学に於て、目的であるよりも結果であるということになる。科学の目的は、認識ではなく生産である、ということにもなろう。
言葉の選択上の傾向や好みならば、認識を目的とすると云っても、生産を目的とすると云っても、どっちでもいいようである。併し私はこの際、一歩譲って、問題をごくプラグマティックに考えるに止めよう。と云うのは、科学の目的を物の生産にあると考えて見た方が、色々の宿題を解くのに好都合なのである。まず第一は、例の技術に大
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