である。意志が実践であるのではなくして意志の実践が実践なのである。理論[#「理論」に傍点]と実践[#「実践」に傍点]とは却ってこのことによって、結び付く意味を見出すことが出来るであろう。
[#ここで字下げ終わり]

 理解の二つの意味が区別された。理解と把握。そして後者が前者を含み、その根柢をなすことも亦説明された。尤も人々はどの意味に於てでも、理解というこの日常語を用いる権利はあるであろう。日常語に於て最も根柢的――但し日常語として根柢的な――名辞を採用する必要のある吾々は把握を択ぶ。理解とは把握(Greifen)である。けれども求めるものは理解ではなくして概念[#「概念」に傍点]であった。

 把握(Greifen)から連想されるものは概念[#「概念」に傍点](Begriff)である。理解は普通より多く日常語として通用するから、吾々は理解の説明に於ては日常語としての夫から出発した。之に反して、概念は普通より多く専門語―術語として通用すると思われる。吾々は今度は専門語としての「概念」から出発し、之を日常性にまで追跡することによって概念を説明するであろう*(日常性が「より多く通用するこ
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