のが把握であった。故に把握は所謂理解に較べてより根柢的な理解を意味する(常に日常語としてであることを再び注意しよう)。
理解一般は更に、理論的[#「理論的」に傍点]理解に限られない。何となれば向の例に於て、創造されたるものの理解は、もし理解が理論的に限ると考えられたならば、恐らく意味を失って了うであろうから(そして理論的でない上は尚更論理的[#「論理的」に傍点]ではあり得ない)。現にディルタイにあって理解は情意的[#「情意的」に傍点]な理解である必要があった。そうすれば把握も亦――実践性に於てのみ所謂理解から区別された把握も亦――、理論的に限られる理由はあり得ない(まして論理的である理由は尚更ない)。把握は又情意的でもあり得なければならない。――かくして二つのことが明らかにされた。一方に於て把握は静観的[#「静観的」に傍点]に止まらず実践的[#「実践的」に傍点]であり、他方に於て理論的[#「理論的」に傍点]に限らず又情意的[#「情意的」に傍点]である*(但し日常語として)。
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* 理論は情意に対し、実践は静観に対する。二つは原理を異にした分類
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