指摘された。人々は事実を「合理化」そうと欲するが、併し事実とは事実として承認されるべきことそれ自身を意味するとすれば、之を合理化しないことこそ合理的ではないのか。或る人々はこういうであろう、空間が三次元であることは抽象の結果に過ぎないのであって、直接に[#「直接に」に傍点]与えられた空間はそのような次元を持つものではないと。けれどもその直接とは何か、恐らく表象へか又は人々が普通に持つ処の観念――普通性に於ける――へか、直接に与えられることであろう。吾々の求めた常識的概念は日常的でこそあれ、普通性でもなければ表象の直接性でもなかった。三次元が抽象の産物であると云うのか、分析は常に抽象的である。延長は三次元である。延長の三次元の各次元は交換し得る(vertauschbar)ことをその特色とする(例えば複素数の次元――之は無論延長の次元ではない――は交換し得ない、[#ここから横組み]a+bi[#ここで横組み終わり] の次元を交換すれば [#ここから横組み]ai+b[#ここで横組み終わり] となるであろう。それにも拘らず尚交換し得ると考えられるならば、その時は実は延長の次元が考えられているのに
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