る」という性格を、理解されるべき某性格に押しつけてはならない。かくて理解はそれ自身としては、理解されるべき性格に対しては、無性格[#「無性格」に傍点]でなくてはならないことになる(無論吾々が今理解[#「理解」に傍点]を語る時は、その理解は理解という性格を有っている。しかし理解を理解している処の理解は無性格である)。理解が無性格であればこそ、ものの性格がありのままに理解出来るのである**。
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* 主観と客観との二面の対立を仮定しこの両者の関係づけによって認識[#「認識」に傍点]を説明[#「説明」に傍点]する立場、之は認識論と呼ばれる。併しかかる認識は理解とは無縁である。理解は主客の対立と関わり合う必要も理由もないから。従って表象[#「表象」に傍点]又は観念[#「観念」に傍点]――それは主観[#「主観」に傍点](その限り又意識[#「意識」に傍点])である――は理解と関わりがない。故に又概念[#「概念」に傍点]とも関係がない。
** もし理解が何か働きを有つとするならば、例えば理性や意志や又は自我の働きであるとするならば、理解されたものはこれ等の性格
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