仮にそのような立場*の言葉を借りて語るならば、今のような場合は客観がその儘主観に写らなかった場合に相当する(これは所謂誤謬である)、理解が理解すべき某性格に対して、自己の持つ理解という[#「理解という」に傍点]烙印を押すならば――そして之は理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解することであるが――、即ち、某性格をば自己の性格――「理解されたる」と形容すべき性質――を以て覆うならば、そうすれば、某性格は消えて理解の性格だけが現われなければならない。これが向の一種の誤解である。というのは理解の性格を与えることは常に次のような承認を与えることになる、こうは理解したが実際はどうあるかを知らない、と。「私はそう思う」とか「彼の考えによれば」とか云う場合は、「私(又は彼)によって理解されたる限り」という条件を提出する場合であるのであるが、このような条件はとりも直さず理解の性格[#「理解の性格」に傍点]に相当する。もし或る性格を絶対に把握したと思われるならば、「私は(又は彼)が理解した限りは」という断わり書きは無用である筈である。故に理解が完全な理解であるためには理解自身は「理解された
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