葉であるが、この論理性の蒙る筈の今のこの運命を無視して、この論理性を追求するならば、そこに表われるものは正に妥当[#「妥当」に傍点]の概念である。「妥当の領域」に於ては、「判断」に於て現われたような性格の破綻はもはや見出されないかのように見える。けれども吾々は妥当の概念をその成立の動機に於て理解する必要があるであろう。なる程妥当は判断に先立って妥当し、そして判断に固有な肯定否定の対立を超越していると説明される(吾々はラスクの判断論に於てそう教えられている)。判断の主観性に対して妥当の客観性が説かれる。併しながらそれにも拘らず、妥当という問いは実は決して判断に於いての関心と独立に成り立ったのではない。却って判断というテーマに一旦立ち之を否定することによって始めて妥当の概念は歴史的に成立する。処が判断を否定するというのも決してそれの完全なる否定ではなくして、実は却って判断が持つ処の論理性の徹底に外ならない。結局この徹底は判断の客観化[#「判断の客観化」に傍点]に外ならない。この客観化に於て判断に於て認識の通路として役立った論理性は通路[#「通路」に傍点]としての任務を捨てて「領域」となって了う。之によって結果する処は通路の完全なる紛失と、論理性の完全なる独立とであるのは当然であるであろう。というのは妥当は全く主観への関係を絶った超越的客観となると共に、それは又「論理的なるもの」そのものの理想的王国となるのである。このようなものが判断から妥当への動機である。それ故妥当はその動機を反省することによって、再び判断と結び付くべき任務を帯びずにはいられない、それは始めから約束された課題であった。故に妥当はただ判断に於てのみ[#「ただ判断に於てのみ」に傍点]、再びその通路を拾い上げることが出来るのである。従って妥当の概念は判断の概念によって、而もその構成性(論理性)によって、動機づけられている。ただこの構成のみを独立化して、破綻の懼のあった判断をば妥当にまで転位するが故に、判断が蒙ったかの破綻を黙殺し得たまでである。その代りこの妥当[#「妥当」に傍点]は存在[#「存在」に傍点]とは全く独立な概念として現われて来なければならない。かくして空間――それは存在にぞくした――の性格は明らかに妥当の性格とは独立でなければならなくなる。
 空間概念の性格は判断[#「判断」に傍点]でもなく妥当[
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