ればならない。即ち優越性は成り立つのである。そればかりではない、構成性が問題となることの出来るこのような特殊の場合に於てすら、構成性はなくても優越性は成り立つことが出来るのである。その実例を吾々は後に意識に就いて見出すであろう。優越性・還元性・構成性は各々別である。ただ構成性が成立する時、それに基いて優越性が伴う。

 さてこれだけを決めて置いて、性格の分析に這入る。空間の性格が判断[#「判断」に傍点]の性格によって優越され得ない理由を、私は他の機会に已に、指摘した*。純粋論理学に於ける判断とは、判断作用又は判断意識ではなくして、判断という一つの独立の領域[#「領域」に傍点]を意味する。この判断の領域を通じて人々は存在乃至真理に通達し得ると考えられる。判断はかかる通路として掲げられるのが普通である。それ故判断をこのようなものとして理解する人々にとっては、一切の認識は判断されたる[#「判断されたる」に傍点]ものとして、従って認識の内容は判断されることに於て始めて成り立ったものとして、理解されるのは尤もである。存在とは「存在すると判断される」ことであり、真理とはこの判断が正しい場合に外ならない。かくして判断は構成性――判断されることによって判断されたるものの内容が構成されるという意味に於ける構成性――を有つ。故に今用意しておいた処に従って、判断は優越性を有つ。即ち判断は一つの性格を有つのである。一切の認識は判断という性格を担う。そこで吾々の問題に帰れば、空間的存在は空間的に存在するものと判断[#「判断」に傍点]されて始めて夫であることになるであろう。その時空間的存在の有つ性格は要するに判断という性格に過ぎなくなるであろう。そうすれば空間は独立の性格を有つのではなくして判断という性格に包摂されて了う外はないであろう。処が空間的存在を定立する処の判断――存在判断の代表者が夫である――は、恰も、判断としての性格の破綻を暴露している最も著しい一例でなければならない。というのは、普通、判断は主語と客語との結合をその特色とするものと考えられるのであるが、この特色は恰も非人称判断――その代表者は向の存在判断である――に於て破綻を生じなければならないからである。この際適当な主語を択び出すことの出来ないのは例えばブレンターノが之を指摘している**。それ故残された唯一の道は判断の特色をば主
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