念[#「空間概念」に傍点]に制約されている、この分析は常に空間概念の性格[#「性格」に傍点]と動機[#「動機」に傍点]に従って遂行された。それ故この場合の本質=形相は単なる夫ではなくして概念に制約された本質=形相でなければならない。であるから例えばこの概念が吾々の発見しようとして来た処の概念とは異った概念として発見されるならば――何となれば概念は与えられてはなくして発見[#「発見」に傍点]される筈のものであったから――、これ等の形相が指摘される代りに他の形相が見出されるかも知れない。そうすれば延長ではなくして例えば同時存在の順序[#「同時存在の順序」に傍点]が空間の根本的規定として挙げられるかも知れない(ライプニツに於てのように)。このようにして茲に発見された本質は一応不変性を有つものと考えられるにも拘らず、それが発見される過程に於て、その仕方に於て、決して一定不変であることを保証されてはいない。こう云った処で、吾々の得た結果がどのような風にでも考え替えることが出来るというのではない。ただそのような考え替えることの出来ないような結果も、その考えを制約する処の過程によって制限されていると云うまでである。処が又この過程自身も、吾々の採用して来た処のものが、勝手に他の仕方と差し替えが出来るというのではない。吾々の採った仕方を無論吾々は唯一のものと信じているのでなければならない。ただ或る人々がこれとは異った仕方を採用しないとも限らないという可能性を承認するに過ぎない。而もこの可能性を承認することによって、吾々の仕方と他の人々の仕方とを共通の地盤の上に立て、その上で対決を迫ろうと欲するに外ならないのである。それ故得られるものが本質的であるということと、それを得る仕方も亦本質的であるということとは、今の場合一つに考えることの出来ない理由がある。もし之を一つと考えること―― Wesensschau のように――が「本質論」の欠くことの出来ない条件であるとすれば、吾々の分析はその成立に於て「本質論」と区別されなければならない。尚また成立に於て異るばかりでなく、その方向に於ても二つを同一と考える理由を吾々は有たない。「本質論」――「形相論」、「本体論」――は、「現象論」に対し、之に向うている。処が吾々の空間概念の事態の分析は、現象論ではない処の何物か[#「何物か」に傍点]に向っている
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