が出来たから、――そして表現の把握は表現の理解に相当したから――、その限りは静観の立場に立ち、必要によっては之に止まることも出来るであろう。把握はこの限り理解と全く同じ能力を有ち、従って把握は理解を完全に代理する。併し把握は単に之に止まらず、更に理解されるべきものの変革を必然ならしめる契機となる性質を持つ。この意味に於て把握は実践的[#「実践的」に傍点]であると云うことが出来るのである。但し、把握が実践[#「実践」に傍点]であるというのではない、把握は実践それ自身ではない、併し実践を必然ならしめる契機をなす、というのである。かくて所謂理解は静観的[#「静観的」に傍点]であり之に反して把握は実践的[#「実践的」に傍点](それは静観的を含むことが出来る)である。処で単に理解するということは理解されるべきものを少しも変革することは出来ない。併し理解が真に理解であるためには、その理解によって理解されるものが理解者の使駆に委ねられ得ることが必要な条件であるであろう(一つの定理を理解するとはこの定理を応用[#「応用」に傍点]し得るということである)。この積極的能動力――実践的――理解を云い表わすものが把握であった。故に把握は所謂理解に較べてより根柢的な理解を意味する(常に日常語としてであることを再び注意しよう)。
 理解一般は更に、理論的[#「理論的」に傍点]理解に限られない。何となれば向の例に於て、創造されたるものの理解は、もし理解が理論的に限ると考えられたならば、恐らく意味を失って了うであろうから(そして理論的でない上は尚更論理的[#「論理的」に傍点]ではあり得ない)。現にディルタイにあって理解は情意的[#「情意的」に傍点]な理解である必要があった。そうすれば把握も亦――実践性に於てのみ所謂理解から区別された把握も亦――、理論的に限られる理由はあり得ない(まして論理的である理由は尚更ない)。把握は又情意的でもあり得なければならない。――かくして二つのことが明らかにされた。一方に於て把握は静観的[#「静観的」に傍点]に止まらず実践的[#「実践的」に傍点]であり、他方に於て理論的[#「理論的」に傍点]に限らず又情意的[#「情意的」に傍点]である*(但し日常語として)。
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* 理論は情意に対し、実践は静観に対する。二つは原理を異にした分類
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