である。意志が実践であるのではなくして意志の実践が実践なのである。理論[#「理論」に傍点]と実践[#「実践」に傍点]とは却ってこのことによって、結び付く意味を見出すことが出来るであろう。
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 理解の二つの意味が区別された。理解と把握。そして後者が前者を含み、その根柢をなすことも亦説明された。尤も人々はどの意味に於てでも、理解というこの日常語を用いる権利はあるであろう。日常語に於て最も根柢的――但し日常語として根柢的な――名辞を採用する必要のある吾々は把握を択ぶ。理解とは把握(Greifen)である。けれども求めるものは理解ではなくして概念[#「概念」に傍点]であった。

 把握(Greifen)から連想されるものは概念[#「概念」に傍点](Begriff)である。理解は普通より多く日常語として通用するから、吾々は理解の説明に於ては日常語としての夫から出発した。之に反して、概念は普通より多く専門語―術語として通用すると思われる。吾々は今度は専門語としての「概念」から出発し、之を日常性にまで追跡することによって概念を説明するであろう*(日常性が「より多く通用すること」、普通性、でないことを後に述べる)。
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* 吾々は術語としての概念[#「概念」に傍点]を術語としての表象[#「表象」に傍点]及び観念[#「観念」に傍点]から区別する。日常語として三者は相似た意味を有つかも知れない、併し吾々の出発は術語としての概念であるからこの区別は最も必要である。但しこの区別を改めて述べる余地はないと思う。
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 概念は根本的に異った二つの種類を有つ。その一つは構成的概念[#「構成的概念」に傍点]である。論理学及び数学は或る論理的なる要素[#「論理的なる要素」に傍点]によって論理的に構成[#「論理的に構成」に傍点]された体系である。というのは例えば斉しく理論的であっても、物理学は決して論理的なる要素[#「要素」に傍点]の体系ではない(尤も特殊の哲学的立場――汎論理主義のような――に立つ時は論外である)。仮にマッハをして云わしめれば、感覚的要素――この要素自身はどのような意味に於ても論理的要素ではない――の体系こそ夫である。之に反して先ず数学は論理的要素(例えば集合論に於ける要素の如き)に基いて論理的
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