うな)とが同じであるとは、併し吾々は考えない。二つは同じ理解という言葉に値いする、それにも拘らず之を同じと考える理由はない。この関係は次のことを帰結する。表現されたものを理解することばかりが理解の名に値いするのではないということ(この場合理解は常に日常語として語られているのを忘れてはならない)。故に日常語としての理解は、必ずしも今云った意味に於て受動的なものには限られない。それには受動的ではなく従って能動的[#「能動的」に傍点]である場合も許されなければならない。理解に代り理解のこの能動性をも云い表わす言葉を吾々は把握[#「把握」に傍点]に於て見出すのである。表現を理解すること――それは受動的であった――も、表現すること自身――それは能動的であった――も、把握である。表現されたものが把握されねばならぬと同時に、表現するためにはまず把握していることが必要である、表現すること自身が把握ですらあるのである。なる程受動的な理解であっても或る能動性(積極性)は有つ、この理解の力によって、単に深く見えたものが初めて透明にされるからである。又それと同じに、能動的な把握であっても或る受動性(消極性)は有つ、把握は無から有を把握し出すのではないから。併しそれにも拘らず所謂理解[#「所謂理解」に傍点]は受動的であり、把握[#「把握」に傍点]としての理解は能動的であると考えられなければならない。けれども把握とは何か。
 受動的理解は静観[#「静観」に傍点]の立場に止まる、――観照がその適例であるであろう。受動的又は能動的理解は一般に、理解されるべきものを匡《た》めて理解するのではなくして、それをあるが儘に理解することである(その説明は後に与える)、処が受動的理解は更に、静観的に[#「静観的に」に傍点]あるが儘に之を理解する立場にのみ止まり、之を一歩も超えることをしない。吾々は或る物――例えばモデル――をそれがあるがままに理解する場合にしても、之を変革すること――例えば創造――を必然ならしめる場合があるであろう。表現する場合に之に先立つ理解が夫である。受動的理解は之をなし得ない――それは静観的である(実践[#「実践」に傍点]理性から区別された理解―悟性[#「悟性」に傍点]を見よ)。然るに能動的な把握は恰もこの点に於て所謂理解とは性質を異にしている。把握は向に示された通り表現の把握であること
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