はないかも知れない。誰も群[#「群」に傍点]とか環[#「環」に傍点]とか場[#「場」に傍点]とかヴェクトル[#「ヴェクトル」に傍点]とかいう術語を日常語から出発して説明出来るとは思わないに違いない(但し数などは之と趣を異にしている)。之に反してもし humanistisch な部門であるならば、術語が日常語に於て有つ地盤を検討することは多くの場合非常に必要であるであろう。そして哲学――この多義な言葉を最も普遍的に用いるとして――に於ては、どのような場合にも、このことが絶対に必要である。もしそうしなければ、哲学は常識[#「常識」に傍点](その正確な意味は後を見よ)からの通路を有たないこととなり、入口なき象牙の塔の内に閉じ込められて了うこととなるであろう。数学・物理学などにとって通路を形造っているものは、計算や実験であるが、哲学にとっては之に相当する通路が失われて了うことになる。そこで理解という言葉が様々に語られると今し方云ったのは、この言葉が専門家達の術語として一定していないということを云おうと欲したのではない。そうではなくして正に、それが日常語として、――そして日常語の常として――一定していないことを指摘したかったのである。さて理解という日常語はこのようにして多義である。併し多義なロゴス――言葉――の内には、おのずからロゴス――関連――がなくてはならぬ。
或る人は理解を何かしら受動的[#「受動的」に傍点]なものとして考える。何物かを例えば創造することは能動的であるが、能動的に創造されたこの物に就いて受動的に観照することが、理解である、とそのような人々は思い做す。この思い做しに基いて理解は表現[#「表現」に傍点]――それは能動的である――から区別されるのが普通である。併し表現は記号[#「記号」に傍点]から区別される、という意味は、表現は常に生命あるものの表現である外はない。処が生命を表現するには表現者が自己の生命を、即ち表現者自身を、何かの意味に於て既に理解[#「理解」に傍点]しているのでなければならない。そうでなければ表現者は如何に[#「如何に」に傍点]自己を表現すべきかを決定する自由を持たないことになる、そしてこの自由を欠く時、表現は表現ではなくして模写に過ぎなくなって了う。表現するには表現者自身の理解がある筈である。この理解と表現されたものの理解(向の観照のよ
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