#「概念に於て」に傍点]行なわれる、概念そのものを源泉として行なわれるのである(概念の分析は一定の目的を有つ、この目的こそ課題として掲げられたる性格である)。
 今もし概念が構成的概念であるならば、その分析は進行することが出来ないであろう。これを隠蔽するためにはそれ故一つの捏弄に逃避する外に道はない。一方に於て概念に構成性を与えながら、他方に於て概念を分析し得るかのように思い做すためには、この捏弄は避けがたい。茲に概念のスコラ主義が成り立つのである*。概念と実在との同一を許さない限り、即ち概念に概念という性格を与え実在に実在という性格を与え、そして二つの性格を不思議にも同一化しない限り、このような概念の分析は何の結果をも約束するものではないであろう。結果を約束しない仕方、それは最も非方法的である。吾々の分析はかかる煩瑣的思弁と混同されてはならない。
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* この場合分析の(実は捏弄の)源泉となり得るものは言葉[#「言葉」に傍点]だけである。スコラ的本体論とは「言葉の意味から分析的判断を引き出すことである」(Husserl, Philosophie als strenge Wissenschaft, Logos, Bd. I. S. 305)。
[#ここで字下げ終わり]

 概念の分析の源泉として意識現象[#「意識現象」に傍点]が択ばれる場合。現象学が夫である。「本質の照観に於て把捉された本質[#「本質」に傍点]は、少くとも可なりの程度にまで、固定した概念として定着される*。」このような本質概念を通じて、即ち本質の照観に溶け入るべき概念的な言葉の意味を通じて、現象は記述されるのである**。現象の記述は従って、種々の本質概念[#「概念」に傍点]の間の関係を決定する処の一つの分析[#「分析」に傍点]であるから、之を或る意味に於ける概念の分析[#「概念の分析」に傍点]と呼ぶことは出来るであろう。それは吾々の概念の分析と同じであるか。実際、本質概念[#「概念」に傍点]は――但しその概念の分析ではない――吾々の概念と一応同じに考えられるであろう。と云うのは、第一にこの概念は決して構成的概念である理由を有たない。本質を不変にして一般的なものと考えるにしてもそれが所謂概念――構成的概念――であることにはならない。ただ把握的概念と構成的概念との
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