区別を無視する時にのみ、本質は構成的概念であるかのように誤られるであろう(例えば W. Ehrlich***)。第二にこの概念は単に言葉の意味[#「言葉の意味」に傍点]でもあり得ない筈である――それは「概念的[#「概念的」に傍点]な言葉の意味」であった。現象学の分析は言葉として用い慣らされている呼び方から出発しはするが、スコラ的概念ではない。かくして現象学に於ける本質概念は一応吾々の概念と一つであるように思われる。処がそうであるからと云って概念の分析[#「概念の分析」に傍点]は吾々のそれと一つであるのではない。現象学に於ては、概念の分析の源泉を現象[#「現象」に傍点]に求める(そして現象は現象学に従えば意識[#「意識」に傍点]である)、しかるに吾々の概念の分析は、概念それ自身を源泉とする筈であった。現象学に於ける概念の分析――それは「本質の分析」である――は実は意識[#「意識」に傍点]の分析である。之に反して吾々の求めるそれは、言葉通りに概念[#「概念」に傍点]の分析でなければならない。――そして概念の分析の意味が異るだけそれだけ、概念[#「概念」に傍点]の意味も異るわけである。実際本質概念と吾々の概念との区別を、吾々は後に至って見る機会があるであろう。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* フッセルル、同上 S. 15.
** 同 S. 14. 参照。
*** Ehrlich, Kant und Husserl 参照。
[#ここで字下げ終わり]

 概念を概念自身に於て分析する、概念自身をその分析の源泉とする、之は言葉の内容なき反覆ではない。すでに概念は動機を有った。そしてその動機は歴史社会的制約を有った。それ故概念は歴史社会的に存在[#「存在」に傍点]している――それは歴史社会的に成立した。そこで概念は自己の歴史社会的存在に於て、その成立の過程に於て、即ち動機に於て、分析されることが出来る。即ち又それは性格に於て分析される。概念の分析の源泉は再び性格[#「性格」に傍点]である。而もこの性格は歴史社会的制約を以て歴史社会的に存在していなければならない。故に分析はこのような存在[#「存在」に傍点]を源泉として行なわれるべきである。それ故今や吾々は云うことが出来る、概念は性格に従って[#「性格に従って」に傍点](故に又動機[#「動機」に傍点]に従って)、そし
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