て初めて概念は動機を有つ[#「動機を有つ」に傍点]。動機は概念の働きではない、何となれば一般に概念が概念として――性格者として――働くことは出来なかった筈であるから。
概念は性格[#「性格」に傍点]を概念しそれによって動機[#「動機」に傍点]を有つ。之が今まで得た結果である。概念の解釈は一まず止めて今は概念の分析に還る機会である。
第二に、何を概念の分析[#「概念の分析」に傍点]と呼ぶか。
今迄述べて来た処を次のように理解するならば、それは根本的な誤解である。性格というものがあり、そして之に対してその概念があるとして、両者を関係づけることによって、認識[#「認識」に傍点](理解)が如何にして可能[#「可能」に傍点]となるか、を吾々が説明[#「説明」に傍点]しようと欲したのである、と。第一吾々にとってはものとその概念とが客観と主観とのように対立しているのでもないし、又第二に吾々の問題は認識の基礎づけ[#「基礎づけ」に傍点]の問題でもない。このためには恐らく一つの体系[#「体系」に傍点]を組み立てることが必要であるであろう。処が吾々は概念の(又は理解の)体系を組織したのではない。吾々は概念を以て世界やその認識を説明しようとは空想しない。それは恐らく形而上学か認識論の仕事であろう、併し吾々の仕事ではない。体系を組み立てるのに必要なものは総合[#「総合」に傍点]である。故に吾々に必要であったものはこの総合ではない。ではなくして正に分析[#「分析」に傍点]でなければならない。吾々の方法[#「方法」に傍点]――それは体系ではない――は分析的[#「分析的」に傍点]であった。処でこのような分析とは何であるか。そう問われる。単に分析だけを引き離して解釈することは吾々には出来ないであろう、何となれば吾々にとっては分析は常に概念の分析[#「概念の分析」に傍点]なのであるから。
人々が普通何かを説明すると云う時、之を吾々の言葉に引き直して云うならば、実は概念の分析を理想としているに外ならない。そして普通単に分析と呼ばれるものも常に概念の分析でなければならない。「商品の分析」は実は商品概念の分析に外ならないであろう。なる程、商品概念を分析するのではない、商品そのもの[#「そのもの」に傍点]を分析するのである、と人々は云うかも知れない。併し商品ダイヤモンドを分析すると云っても、その結
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