を有とうとすれば、それは必然に構成的概念になる外はないのである。何となれば、概念という性格を持つことによって初めて、概念は独立[#「独立」に傍点]し、それ自身の世界を構成[#「構成」に傍点]し得るのであるから。であるから吾々が一般に概念に就いて語る時、常に先ず、それが無性格であるかないかを決めてから語らなければならないであろう。これを混同する時、重大な結果を齎す。例えばヘーゲルの概念[#「概念」に傍点]を、絶対的[#「絶対的」に傍点]な、独立[#「独立」に傍点]な、自己発展的な理念、と解釈し得るならば、それは性格ある概念――構成的概念となる。その時この体系は観念的なるもの――それの性格が概念である――の所産の集成として説明され、形而上学となるであろう*。
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* 或る人々は静的[#「静的」に傍点]実在を想定する哲学をのみ形而上学と呼ぶのを当然と思い做す。けれども吾々にとっては実在の絶対化・独立化こそ夫である。絶対化・独立化は必ずしも静止化[#「静止化」に傍点]ではない。
[#ここで字下げ終わり]

 吾々の概念は無性格である。之を性格者と考える時多くの批難が吾々の概念に向けられるであろう。吾々の概念が一切のものを観念化[#「観念化」に傍点]しはしないかという質疑がその一つである。吾々の概念が一切のものを論理化[#「論理化」に傍点]しはしないかという質疑がその二である。併し再び云おう、概念は無性格である、それは観念的[#「観念的」に傍点]という性質も論理的[#「論理的」に傍点]という性質も持ちはしない。

 概念は常に名称[#「名称」に傍点](名辞[#「名辞」に傍点])を有つことが出来る。或る概念をどの言葉によって名づけようとも一応は勝手であるとも考えられるであろう。併し吾々が出会う殆んど総ての場合は、或る課せられた概念をば、既知の言葉を以て名づける場合であることを、注意しなければならない。或る課せられたものを観念と呼ぶことによってそれの概念を成立せしめるか、或いは物質と呼んでそうするかが、問題となるように、既知の――歴史社会的に与えられたる[#「歴史社会的に与えられたる」に傍点]――言葉の内から、この概念に適すると思われる言葉を採用して、命名[#「命名」に傍点]するのである。処がこの場合の命名は決して勝手であることは出来ない。
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