る」という性格を、理解されるべき某性格に押しつけてはならない。かくて理解はそれ自身としては、理解されるべき性格に対しては、無性格[#「無性格」に傍点]でなくてはならないことになる(無論吾々が今理解[#「理解」に傍点]を語る時は、その理解は理解という性格を有っている。しかし理解を理解している処の理解は無性格である)。理解が無性格であればこそ、ものの性格がありのままに理解出来るのである**。
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* 主観と客観との二面の対立を仮定しこの両者の関係づけによって認識[#「認識」に傍点]を説明[#「説明」に傍点]する立場、之は認識論と呼ばれる。併しかかる認識は理解とは無縁である。理解は主客の対立と関わり合う必要も理由もないから。従って表象[#「表象」に傍点]又は観念[#「観念」に傍点]――それは主観[#「主観」に傍点](その限り又意識[#「意識」に傍点])である――は理解と関わりがない。故に又概念[#「概念」に傍点]とも関係がない。
** もし理解が何か働きを有つとするならば、例えば理性や意志や又は自我の働きであるとするならば、理解されたものはこれ等の性格を有たねばならぬ。例えば物質は物質の性格として把握される代りに、理性・意志・自我などの所産として(それ等の性格を有つものとして)説明[#「説明」に傍点]される。茲に形而上学が成立する。
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 さて理解の無性格は直ちに概念の無性格を要求する。某概念は某性格の概念であるから、その限りその概念は某性格を有つと云うことは出来る。けれどもこの概念は概念という性格[#「概念という性格」に傍点]を有ってはならない。概念「直観」が、直観概念が、もし概念という性格を有つならば、即ち概念でしかないならば、この概念は直観[#「直観」に傍点]の概念ではなくして概念[#「概念」に傍点]の概念になって了う。かくて直観[#「直観」に傍点]は消えてそれと正反対な概念[#「概念」に傍点]が残る。かくしては直観という概念自身[#「概念自身」に傍点]が成立しなくなるであろう。概念が自己の性格を有つ時、却ってその存在を失うことすらあるであろう。概念が概念であるためには、却って自分自身は無性格でなければならない。
 把握的概念は無性格である。之に反して構成的概念は性格を有つ。否、概念一般が概念という性格
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