はこのような性格を把握する**。
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* 代表という概念は例えば抽象という概念と比較されるべきではない。後者は類・種の系列に関係する。処が前者は之とは無関係であった。
** 性格を理解し誤ること――誤解――の内、最も救い難く見えるものは見当違い[#「見当違い」に傍点]である。後に見当違いが吾々の問題――空間概念の分析――に於て、どのような役目を演ずるかを見るであろう。
[#ここで字下げ終わり]
理解は某性格の理解であるから、その限り某理解はその某性格を有つという言葉が許される。従って又この意味に於て、某概念は某性格を有つと云う言葉も許される。併しもし、理解がその某性格を(模写説的譬喩を借りるならば)その儘[#「その儘」に傍点]受け容れるのでないならば、即ち理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解するのであったならば、それは理解ではなくして一つの人工的加工――説明[#「説明」に傍点]――に外ならないであろう。それは一種の誤解[#「誤解」に傍点]である。理解するに先立って性格が客観的に成立しているというような考え方を吾々は許さないが、仮にそのような立場*の言葉を借りて語るならば、今のような場合は客観がその儘主観に写らなかった場合に相当する(これは所謂誤謬である)、理解が理解すべき某性格に対して、自己の持つ理解という[#「理解という」に傍点]烙印を押すならば――そして之は理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解することであるが――、即ち、某性格をば自己の性格――「理解されたる」と形容すべき性質――を以て覆うならば、そうすれば、某性格は消えて理解の性格だけが現われなければならない。これが向の一種の誤解である。というのは理解の性格を与えることは常に次のような承認を与えることになる、こうは理解したが実際はどうあるかを知らない、と。「私はそう思う」とか「彼の考えによれば」とか云う場合は、「私(又は彼)によって理解されたる限り」という条件を提出する場合であるのであるが、このような条件はとりも直さず理解の性格[#「理解の性格」に傍点]に相当する。もし或る性格を絶対に把握したと思われるならば、「私は(又は彼)が理解した限りは」という断わり書きは無用である筈である。故に理解が完全な理解であるためには理解自身は「理解された
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