て友情を持つことである外はあるまい。そうすれば彼の友情を理解することは彼に対する友情そのものでしかあり得ない。人々は理論的[#「理論的」に傍点]友情を持つと云うか。処で理解の対自性が概念であった。友情の理解の対自性は友情の概念でなければならない。尤も友情を持つことと友情の概念を持つこととは別であると云うであろう、明らかに別である。ただ人々によれば前者が恐らく情意的であるに対して後者が恐らく理論的である迄である。吾々は何も理論的概念を否定しなかった。ただ之に限らなかった迄である。かくて把握的概念は情意的であり得る。
 之が吾々の「概念」である。それは或る種類の哲学に於て用いられて来ている術語「概念」ではない。もしそのような術語として之を理解するならば、吾々の概念の説明はそれ自身一つの矛盾の外ではなかったであろう。之に反して吾々の概念は出来るだけ通俗的に、日常語として理解されなければならない。その時日常語「理解」が許される処には又必ず概念という言葉が権利を有つ。所謂概念をあのように悪む芸術に於てすら作品は一つの概念の(或いはイデーの)展開として説明される、吾々はそれを何か仔細げにいぶかる理由を有たない*。
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* 概念とはそれでは要するにイデーであるのか、と人々は尋ねるかも知れない。けれどもイデーは理念[#「理念」に傍点]としても観念[#「観念」に傍点]としても概念[#「概念」に傍点]としても意味を有つ。その問いは問題を単純化する代りに混乱させるに過ぎない。それに又イデーという術語[#「術語」に傍点]を以て吾々の概念を説明することを求めること自身が、無意味である。
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 人々は最後の疑問を提出し得るかのように想像するに違いない。それはこうである、なる程概念をそのように「あれもこれも」を意味するものと仮定するのは勝手であるが、少くとも理論的な概念と情意的な夫とを区別するには区別の標準がなくてはならないが、その標準が再び従来用いられて来ている「概念」の有無によって与えられるのではないか、と。人々がこれを理由として吾々の概念――それは吾々が仮構したものではなくしてただ吾々が日常生活に於て指摘した事実に外ならない――の困難を見出したと想像するならば、それは完全な誤りである。日常語としての概念の内に従来の――哲学的術
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