理的であった――であろう、把握的概念の与り知ったことではない。
 今や吾々は理解(把握)を借りて之に基いて概念(把握的概念)を説明することが出来る、そのための法則を今吾々は掲げた処であった。把握は静観的であったばかりではなく実践的であった。故に概念は静観的[#「静観的」に傍点]であるばかりではなく実践的[#「実践的」に傍点]でなければならない。之は人々の耳には不可思議に響くかも知れない、実践性を有った概念とは(実践的なるもの[#「実践的なるもの」に傍点]に就いての概念ではなくして明らかに実践性[#「実践性」に傍点]を有った概念である)。併し今の場合の実践的は実践を必然ならしめる契機となることが出来るという意味であったのを憶い起こさなければならない。概念が行動するなどと云うのではない。尤も単に言葉[#「言葉」に傍点]を以て表現[#「表現」に傍点]するという意味での把握的(表現的[#「表現的」に傍点])概念だけを概念と考えるならば、それが実践的であるという言葉は、今云った意味に於いても、まだ軽率であるに違いない。併しかかる表現的概念を適当に[#「適当に」に傍点]――その日常性にまで――拡張することをこそ、吾々は把握からの口授によって教えられるのである。その時概念は単に言語的に表現[#「言語的に表現」に傍点]するものであるばかりではなく、実践的に表現[#「実践的に表現」に傍点]する――行動する――ことを必然ならしめる契機となるものでなければならない。実践の根柢には把握があり、その限り又把握的概念があるのである。次に、把握は理論的であったと共に情意的であり得た。故に概念は理論的[#「理論的」に傍点]であると共に情意的[#「情意的」に傍点]でなければならない(把握的概念は理論的[#「理論的」に傍点]ではあり得る、併しそれは無論論理的[#「論理的」に傍点]であることとは異る)。再び人々は疑わしげに聴くであろう、概念が情意的であるとは。一体そのようなものが何故概念の名に値いするのか、と。けれども人々を不意に襲わないためにこそ、吾々は理解の説明の迂路によって概念を説明しようとするのである。例えば人々は友人の友情を理解しないであろうか。併しこの理解は理論的であるか(吾々は常に日常語を取り扱っているのを忘れてはならぬ)。彼の友情を理解することは彼の友人となることであるが、それは彼に対し
前へ 次へ
全62ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング