るであろう。白い物として把握されるべき[#「べき」に傍点]白い物の、概念が把握される場合。又最後に概念は把握の働きを遂行せしめる処の運動のエージェント[#「エージェント」に傍点]に譬えられるであろう。把握は常に[#「常に」に傍点]概念によって[#「よって」に傍点]遂行されると考えられる場合が之である。この譬喩によって知られる通り、把握[#「把握」に傍点]は把握的[#「把握的」に傍点]概念によって行なわれるのである。理解する[#「する」に傍点]とは概念を有つ[#「有つ」に傍点]ことに外ならない。前者は一つの verbum を、後者はそれに対する substantivum を云い表わす言葉と云うことが出来るであろう。ヘーゲル的術語を借りてよいならば概念は把握の 〔Fu:r−sich−sein〕 であると考えられる。把握とは概念する[#「概念する」に傍点]ことである。人々は吾々のこの言葉を承認しないであろうか。併し吾々はこの言葉が正しいか否かを人々に問おうとするのではない、却って吾々の概念[#「概念」に傍点]は把握に対してこのような関係を有つものとして理解されねばならぬということを、吾々は人々に求めるのである。吾々は寧ろこの要請[#「要請」に傍点]に基いて概念を定義[#「定義」に傍点]してよいであろう。さてそうとすれば吾々の目的――概念を理解によって説明するという目的――にとって有利な一つの法則[#「法則」に傍点]を得る、概念は理解の対自であるという条件の下に、吾々は常に理解と概念とを統一的に取り扱うことが出来る、という法則。理解と概念との統一、之が吾々が或いは理解、或いは概念、と呼ぶ処のものの真理である。故に理解に就いて云うことの出来たことは、その儘、但し今の条件の下に、概念に当て嵌まらなければならない。
 概念が理解の対自であるという今の条件を理由として恐らく人々は云うであろう、であるからたとい理解がどうあるにせよ少くとも概念は論理的[#「論理的」に傍点]でなければならない、と。理解することが論理的ではないにしてもその理解の固定した断面とも云うべき概念は論理的存在ではないか、と。処で吾々はそのような主張又は杞憂を防ぐために、特に把握的概念が論理的ではない[#「ない」に傍点]ことを指摘しておいたのである。対自性によって論理的となるもの、それは恐らく構成的概念――それは論
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