は空間の実在性(存在)としての性格を覆うものではない。況して空間が表象である――空間の性格は表象という意識である――などと云うことにはならないことを注意して置こう。さてこのようにして空間は存在の性格にぞくす。処が現象学的還元はこの存在の性格を否定した。故に又空間の性格も之によって否定されないわけには行かない。即ち茲に於ては空間の性格は意識の性格によって優越される。かくして空間の性格は存在[#「存在」に傍点]であって従って意識[#「意識」に傍点]ではあり得ないことが結果した***。空間を表象として、知覚として又直観として理解することは少しも不都合ではない。ただ併しそれは決して空間の正当[#「正当」に傍点]なる概念ではない。何となればそれ等のものは空間の性格・優越を理解せしめる代りに空間の任意の一つの特徴に於ける還元性――吾々の意味に於ける――を云い表わすに過ぎないから。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 例えばエールリヒ、前掲書 S. 103 参照。
** 「天国に於ては一切の物は吾々の世界に於けると全く同じに空間に位置を占める。併し天使等は場処とか空間とかの観念を持たない。……霊界の場処の変化は状態の変化に外ならぬ。何となれば茲では場処の変化は凡ての心の状態の変化によって作用されるのであるから。……かくして接近は心の状態の類似に、遠隔はその相異に外ならないことは明らかである」云々(Swedenborg, Heaven and Hell, §191−3.)。
*** 吾々の概念がそうあったように、もし意識が又は現象が無性格[#「無性格」に傍点]であるならば、問題は全く別になるであろう。
[#ここで字下げ終わり]
空間の性格は意識ではないから、意識の性格に於て現象を理解する現象学的還元によって、空間は本来[#「本来」に傍点]の問題として提出される機会を失って了う外はない。無論この場合、空間が全く問題になることが出来ないなどと云うのではない。却って空間はすでに吾々が見たように、殆んどどのような立場・方法に立っても常に何かの形態に於て問題となり得る性質を持っていた。ただ空間概念がその本来の問い方に於て、空間自身の要求する問題提出の仕方に於て、更に云い換えるならば、空間概念の性格に従って、問われる動機を、現象学的方法は不可能ならしめる理由があるのであった。そ
前へ
次へ
全62ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング