である――ならば、机が又は椅子が在るとか無いとか云う理由もあり得ないであろう。かくして存在は事実よりも根本的である。それ故実在に於て存在は事実に較べてより根本的な契機をなす。この契機を失う時実在は実在であることが出来なくならねばならぬ。この意味に於て実在は存在であると云う言葉には充分の理由があるであろう。存在は実在そのものではない、併し実在をして始めて可能ならしめる契機がそれである。それではそれはどのような契機であるか。実在の最も著しい特徴はその超越[#「超越」に傍点]であるであろう。実在は――それが空間的・時間的実在である以上――到底内在[#「内在」に傍点]ではなくしてその正反対である処の超越であることをその特色とする。何となればこのような超越を有たぬものは明らかに今の場合の実在の名に値いすることは出来ないから。処でこの超越という実在の根本的な契機は恰も存在の概念である。存在とは超越である。そこで現象学はこの超越――吾々によればそれにこそ存在の名が適わしい――を如何しようとするか。
「超越的」なるものは「先験的」なるものに還元されるのである。超越的なるものは個別的でもあり得るし(存在が事実と結び付いている場合)、又本質的でもあり得る(事実が除外された場合)。併し今、形相的還元――それは事実の除外である――によって得られた超越的本質に就いて、その超越性を先験性に還元する場合を考えて見よう*――先験的還元[#「先験的還元」に傍点]。この還元に於て、超越的なるものはその超越的という性格を失喪しなければならない――中和化[#「中和化」に傍点]。そして之に代るべき新しい性格が現象、即ち意識[#「意識」に傍点]なのである。なる程この還元によって自然的世界は或る意味に於て[#「或る意味に於て」に傍点]少しも変容を受けるのではないであろう、庭前の林檎樹はその存在を否定されたり無視されたりするのではない。併し他の意味に於て[#「他の意味に於て」に傍点]は還元前の林檎樹と還元後のそれとは全く別である。というのは還元前に於てはその林檎樹は存在するものとして、その外的存在がそれの性格である処のものとして、存在した。処が還元後に於ては、存在するかしないかは問題にならぬものとして、その外的存在が別にそれの性格ではないものとして、即ち意識現象としての性格のみを有つものとして、それは現象する。
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