であろう。というのは、元来空間は到底、今云ったような意味での事実[#「事実」に傍点]にぞくするのではなくして、已に述べた通り存在[#「存在」に傍点]にぞくす筈であった***。従って形相的還元――それは事実の除外である――によって空間は何の影響をも受けないのである。空間は或る意味に於て(前を見よ)本質的関係ですらあった。それに吾々の今の問題は意識と空間との関係であった。
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* 同上 S. 53 及び S. 54 参照。
** 「根本に於ては、フッセルルは自ら云うように実在[#「実在」に傍点]を除外したのでは全くない。寧ろ一切の個体的・具体的所与一般を除外したのである。」(W. Ehrlich, Kant und Husserl, S. 149)
*** 事実乃至事実(〔real=wirkungsfa:hig〕)と存在(Objekt)とを区別したのはマルティである。彼によれば空間は Objekt ではあるが 〔Realita:t〕 ではない(Marty, Raum und Zeit, S. 97 及び S. 148)。
[#ここで字下げ終わり]

 存在(Dasein)と事実(Tatsache)との結び付きは実在(Wirklichkeit)の概念である。実在はこの二つの契機を有つからして、時にはそれが事実と同じに取り扱われ、又時には存在と同じに見做される場合も出て来るのである。けれども吾々にとっては存在と事実との区別が今の場合是非必要であるということに気付かねばならない(但し今問題となる実在は「空間的・時間的実在」とも呼ばれるべきものに限られる、心理的実在とも云うべきものは論じる限りではない。それ故又事実も存在も云わば空間的・時間的なそれに限られる。――吾々は前から存在を空間的存在に限定していた)。処で事実の除外は必ずしも存在の除外を伴わない。例えば机[#「机」に傍点]が在[#「在」に傍点]る代りに椅子が在るとする。この場合事実としての机と椅子とは無論別個な事実である。併しこのような個別的事実を除外すれば恐らく物一般が在る[#「在る」に傍点]ということが残るであろう。事実は除外された、併し存在は除外されない。之に反して存在の除外は必然に事実の除外を伴わなければならない。もし在るともないとも云う理由がない――それが存在の除外の結果
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