ソフィストの如くこの世界を否定するのでもなく、又懐疑家のようにこの世界の存在を疑うのでもない、ただ空間的・時間的存在に就いての一切の判断が全く閉されるのである、という(同上 S. 56 参照)。処が世界に於て何かが存在するかしないかという判断こそ、自然的なるこの世界の性格の云い表わしなのである。
*** 同上 S. 187 参照。
[#ここで字下げ終わり]
けれども還元を一概に論じることは許されない。還元は除外であったが、除外されるものが何であるかをもう少し立ち入って査べて見よう。それは「空間的・時間的実在」である。「吾々にとってそこに在るもの」、「目の前にあるもの」、一言にして云うならば「Da[#「Da」は縦中横] 性格[#「Da[#「Da」は縦中横] 性格」に傍点]」を有するものと考えられる。還元とはこのような実在[#「実在」に傍点]が除外されることを意味した*。併しながら実在(Wirklichkeit)とは何を指しているのであるか、と吾々は問わねばならない。それは事実[#「事実」に傍点](Tatsache)であるのか、或いはそうではなく[#「そうではなく」に傍点]して、存在[#「存在」に傍点](Dasein)であるのか。或いは又両者の総和であるのか。何となれば一般的なる原理に対する個別的なる経験が事実[#「事実」に傍点]であり、之とは異って、無いものに対する在ることが存在[#「存在」に傍点]であるのであって、仮に両者が常に結び付いているにしても、両者は全く動機を異にした二つの概念であるからである。もしこの区別を承認するならば、一方の除外は必ずしも他方の除外を伴うことを保証しない。処でこの区別をフッセルルがどう与えているかを吾々は知ることが出来ないように思われる。実在と呼び存在と名づけているものも結局事実[#「事実」に傍点]を指すに外ならぬように見える**。それ故実在の除外は個別的な事実[#「事実」に傍点]の除外を意味し、この還元によって得られるものは本質[#「本質」に傍点]である――形相的還元[#「形相的還元」に傍点]。還元は新しい性格を導き入れる筈であったが、この還元によって得られる性格は可能性[#「可能性」に傍点]である。形相的還元に依って可能性の性格は実在の――実は事実の――性格を優越する。けれども吾々はこのような還元にはあまり関心を有たないで済む
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