フ意味を有つということの外にはない。空間は直観であると同時に範疇である。同時に範疇である処の直観でなければならぬ。更に反覆すれば空間とは現実意識に現われる直観内容であり、且つそのことによって同時に外界成立の範疇となっているものでなければならぬ。之こそ空間表象に於て見逃すことの出来ない重大な特色である。空間表象の根源性は正にこの範疇の外にはない。外界成立の範疇であればこそ空間は証明することの出来ない予想――ロッツェの場合――ともなり、視空間触空間などが根源的に一つのものに統一されている――シュトゥンプフの場合――根拠ともなることが出来る。空間直観はこのような意味で根源的と考えられなければならない。であるからして空間の根源性を知るためには是非とも空間直観にまで到着する必要がある。今や私は空間表象が根源的であることに着眼することによって空間直観という概念を取り出すことが出来た。但しそれに就いてただ次のことだけが決められてある、即ち空間直観は第一に外的な純粋直観であり、第二にそれが直観である限りに於て外界成立の範疇である。
四
私は二つの結果を得た。幾何学的直観と空間直観と。両者はどう関係するか。そのためには直観という概念を根本的に規定しなければならない。向には直観を思惟に対する限界と定義したに過ぎなかったが、思惟が限界されるということには二つの場合があると思う。第一は思惟と直観とが互にフレムトなものと考えられた場合である。無論思惟と直観とは結び付くことは出来るがその場合でも直観内容は思惟に対する偶然として現われ思惟は自らの力によって予め之を決定することは出来ない。思惟が直観を基けるのでもなく直観が思惟を基けるのでもない。直観は直観であり思惟は思惟である。何かを思惟するという時思惟されるものが必ず直観内容であるならば思惟は直観に基くか又は之を基けることとなるから今の場合の思惟ではない。それ故思惟されるものが直観内容でなくてもなり立つ処の思惟だけが今の場合の思惟である。このように考えられた思惟と直観との区別に於ける直観を感性的直観と定義する。第二は之に反して思惟と直観とは必ず結び付いていなければならぬと考えられた場合である。云い換えれば思惟と直観とは或る一者の必然的な二面であると考えられる時である。直観内容を云い表わすには思惟を通じてでなければならぬ――即ち直観は思惟に基く――が、併し思惟は直観内容そのものを云い表わす以外のものではない――即ち思惟は直観に基く――という関係に於ける思惟と直観とである。この場合の特徴は両者が互に他のものによって代表されることが出来るということである。この意味に於て思惟と直観とが同一のものとして取り扱われても差閊えがないということである(第一の場合は明らかに之を許さない)。このようにして思惟と区別された直観を知的直観と定義しよう。さて直観の根本的な二義をこのように区別するとすれば幾何学的直観と空間直観との区別を明らかにすることが出来る。幾何学的直観は向に明らかにした通り――二を見よ――幾何学に於て思惟によっては尽すことの出来ないものの存在を意味する。即ちそれは幾何学の基礎でなければならぬ。即ちこの意味に於てそれは幾何学を基けている。且又幾何学的直観の内容を規定するには幾何学そのものによる外はない。即ちこの意味に於て幾何学は幾何学的直観を基けている。然るに幾何学が数学である以上は一種の思惟の体系である。従って幾何学的直観は思惟に基き又之を基ける。それ故幾何学的直観は定義に従って知的直観に属する。そのことは又、幾何学的直観は幾何学――思惟の体系の一つである――によって代表される、という結果をも伴う。次に空間直観はカントが説いているように――三を見よ――悟性ではない。思惟ではない。空間直観は悟性概念――即ち範疇――ではない処にその特色があった筈である。従ってそれは思惟に基くものでも思惟を基けるものでもない。思惟は思惟であり空間直観は空間直観である。故に空間直観は定義に従って感性的直観に属していなければならない。両者をかく区別した上で次にその関係を求めよう。一般的に感性的直観は思惟とは独立であるがそれは両者の結合が不可能であるということではない。併しカントも考えたように両者が結び付くためには第三者が必要である。予めこの第三者があってそれに基いて両者が結び付く理由が始めて在ると云わねばならぬ。併し予想された第三者の内容は両者の結合の結果としてしか現われることは出来ない。即ち感性的直観と思惟との結合の結果が予め予想されてあったものに相当しなければならない。云い換えれば両者が結合し得るという可能性は両者が本来結合していなければならぬものであるという必然性に基いている。処が後の場合の必然性は明らかに知的直観に外ならない。即ち知的直観(I)に於て感性的直観(S)と思惟(D)とが結び付くのである、と同時にSとDとの結合の結果がIに外ならないのである。[#ここから横組み]S+D=I[#ここで横組み終わり]でなければならない。併し茲に注意しなければならないことはS+DがIに基くと云ってもSそのものがIに基くということにはならない(同様にDそのものがIに基くということにもならない)。唯だ+D[#「+D」は縦中横]がIに基くのである。それ故SとIとの関係はSがIに基くのではなくしてIがSに基くのでなければならぬ。この意味に於てSはIに対して根源的であると云うことが出来る。[#ここから横組み]S+D=I[#ここで横組み終わり]ではあるが[#ここから横組み]I−D=S[#ここで横組み終わり]と記すことは出来ない。これが知的直観と感性的直観との間の一般的な関係である。処が前に述べた処によって空間直観は一種の感性的直観(Sr[#「r」は下付き小文字][#「Sr[#「r」は下付き小文字]」は縦中横])であり幾何学的直観は一種の知的直観(Ig[#「g」は下付き小文字][#「Ig[#「g」は下付き小文字]」は縦中横])である。従って次の二つの関係を得る。[#式(fig43263_06.png)入る]及び[#式(fig43263_07.png)入る]。この場合+D[#「+D」は縦中横]は単に思惟の結合を形式的に云い表わしているのでそれが実際上如何いう具体的内容を取るかはまだ決められてない。又吾々はIr[#「r」は下付き小文字][#「Ir[#「r」は下付き小文字]」は縦中横]及びSg[#「g」は下付き小文字][#「Sg[#「g」は下付き小文字]」は縦中横]なるものの存在に就いては何も与えられてない。であるからもしr≡gでないならば二つの関係から吾々はSr[#「r」は下付き小文字][#「Sr[#「r」は下付き小文字]」は縦中横]とIg[#「g」は下付き小文字][#「Ig[#「g」は下付き小文字]」は縦中横]との間の一定した関係を何も導き出すことは出来ない。之に反してもしr≡gであるとすれば両式から[#式(fig43263_08.png)入る]という結果を得る。即ちr≡gならば幾何学的直観は空間直観に基くこととなる。それ故幾何学的直観と空間直観との関係を知る――それが私の課題である――ためにはr≡gであることを見出せば好いわけである。之を云い直せば幾何学的直観に於て感性的な基礎となるものが空間直観と同一であることを知ればよい。そして之を知るために最も手近かに見えるものは幾何学と空間直観とに共通な内容を発見しようとする試みであろう。例えば連続は両者に共通であり、空間の直線性(平面性、ユークリッド性)は又射影幾何学の線(即ち直線)や面(即ち平面)の概念に見出される。空間の直観が無限であるように例えば射影幾何学の対象は無限であり又無限遠点というような概念もこれに基く。であるから之は確かに一つの方法であるに違いない。併し如何に多数の例を挙げてr≡gであることを例証するにしても凡てを枚挙しない限りその推論は帰納的蓋然性以上の妥当を得ることは出来ない。仮に何処か一つ共通でないものが発見されたならばもはやr≡gの証明としては役立たなくなる。それ故r≡gを証明することは一見容易に見えて実は不可能であると云わなければならぬ。であるから私は他の方法を用いる必要がある。今始めから記号的に[#「記号的に」に傍点]r≡gと仮定しよう。という意味は記号的に[#「記号的に」に傍点][#式(fig43263_09.png)入る]であることを仮定しよう。この場合Sr[#「r」は下付き小文字][#「Sr[#「r」は下付き小文字]」は縦中横]とIg[#「g」は下付き小文字][#「Ig[#「g」は下付き小文字]」は縦中横]とは既知の項であるが、D′[#「D′」は縦中横]は未知項である。云い換えればこの形式的な記号関係はまだ必ずしも「幾何学的直観が空間直観に基く」という命題とは同一でない。併し若しD′[#「D′」は縦中横]=Dであることが見出されたならば、即ち+D′[#「+D′」は縦中横]とは思惟が空間直観に結び付くことであるということが何処からか見出されたならば、「幾何学的直観は空間直観に基く」こととなる。即ち吾々は[#式(fig43263_09.png)入る]の式のD′[#「D′」は縦中横]に相当するような思惟内容を何処からか探し出して来れば好いわけである。而もこの方法に於ては前の方法とは異りこのような思惟内容はただ一つ見出されれば充分なのである。
この方法を実際的に用いるに当って次の二三の考察をしておく必要がある。向に私は経験的直観と純粋直観とを区別し、空間直観は純粋直観に属することを述べた。今もし幾何学的直観が経験的直観であるならばr≡gという仮定は全く理由のないことである。何となればそれは明らかにr≡gではないという事実を云い表わしているから。併しながら幾何学的直観は経験的直観ではない。何となれば経験的直観とは定義によって感覚を含む直観に外ならないが、幾何学的直観は感覚を含むものではない。という理由は幾何学の要素は幾何学的に純粋に――感覚とは独立に――定義されるのであり、その定義がまた公理主義の主張するように経験の事実とは独立とも考えられる。縦え公理主義によって解くことの出来ない直観内容――幾何学的直観――があると云ってもそれが経験界に属するということにはならない。であるから幾何学は感覚とは独立である。然るに向に明らかとしたことによって幾何学は幾何学的直観によって代表される筈である。従って幾何学的直観は感覚を含まない。即ち経験的直観ではない。であるからr≡gと仮定するに差閊えはないこととなる。次に又単にこの仮定が差閊えないものであるばかりでなく大いに理由のあることを注意する必要がある。それは幾何学の対象界と空間直観との間に多くの共通な性質が発見されるということである。無論このことはこの仮定が真であることの証明としては不充分であろう(その理由は前に述べた)。併し少くともそれはこの仮定への動機となるだけの理由を有っていることも否めない。であるから要するに仮定r≡gは非常に当然な出発点であると云わねばならぬ。次にD′[#「D′」は縦中横]=Dであることを実際上見出す場合、その探究の範囲を予め出来るだけ決定しておく必要がある。それは云うまでもなく空間直観と幾何学との関係に於て見出すこと以外には無意味である。処が幾何学は一に於て明らかにしたことによって量的であるか質的であるかである。量的幾何学の特徴は計量を含むこと即ち数概念を導入することにあった。併し数とはすでに明らかとなっているように一種の思惟の体系に外ならない。従って量的幾何学はこの意味に於て必ず思惟の加工を含んでいるものと云わなければならない。然るに空間直観はこのような意味では思惟を含むものではない。空間の直観に数概念が発見されるということをば私はまだ何処にも云ってないし又それが可能でありそうな理由も吾々は有たない。であるから空間直観と量的幾何学との間には必ず思惟の機能が発見される筈である。それ故求められた解
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