幾何学と空間
戸坂潤

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【テキスト中に現れる記号について】

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〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔F. Klein, Elementarmathematik von ho:heren Standpunkt aus 2. Kap. III〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 幾何学とは何であるか、之が私の問題である。云い換えれば、幾何学が或る一種の数学であることを承認し且つ一般に数学の真理が先験的であることを予想するとして、幾何学の――数学一般の、ではない――真理は如何にして成り立つか、というのが私の問題である。更に云い換えれば、幾何学は特殊の数学として如何なる特徴を有っているか、という問題である。

   一

 先ず何よりも始めに幾何学なるものの概観を得ることが必要と思われる。恐らく幾何学には無限の種類があるかも知れない。併し何れも幾何学なる名に於て統一されている以上それを一貫する何ものかがあってそれがその区別を与えているのでなければならぬ。吾々は之を攫むことによって幾何学を分類することが出来る筈である。クラインによれば凡ての幾何学は夫々或る一定の形を持った変換に対して不変に残されるものの不変量理論(Invariantentheorie)と考えられるが、クラインは之を解析的に云い表わすことによって幾何学の分類を与えようとした。
例えば類同幾何学は
[#ここから3字下げ]
[#式(fig43263_01.png)入る]
[#ここで字下げ終わり]
なる類同変換に関する不変量理論であり、又射影幾何学は
[#ここから3字下げ]
[#式(fig43263_02.png)入る]
[#ここで字下げ終わり]
なる射影的変換に関する夫である。これらの変換は夫々一つの変換群をなすのであるから一般的に云う時各々の変換群に対して一つずつの幾何学が成り立つわけである。即ち解析に訴えることによって更に又群の概念を借りることによって吾々は一切の幾何学を残りなく分類することが出来る(〔F. Klein, Elementarmathematik von ho:heren Standpunkt aus 2. Kap. III〕)。併しながら第一に解析とは何か。今の場合この概念は無条件に導き入られてあるのであるが私は之を吟味しなければならない。普通数学の対象に数が導き入れられる時かかる数学を解析と呼ぶとも考えられるが、数は例えば有理整数論などに於てのように算法(Operation)を有つものの単なる符号と見做されることもある。併しもとより吾々は符号の算法を解析的とは云わない。即ち数が diskret と考えられる限り之によっては解析は生じて来ない。解析的とはそれ故数の連続が導き入れられる時の方法であると考えなければならない。処が数の連続が導入されるということは幾何学に於ては座標が与えられることに外ならない。向に挙げた変換式のxyz等とは実は座標軸を意味していたのである。勿論このような表現式は実際の座標を必要とはしないものであって単に「形式的」な現わし方に過ぎないとも云い得るが、もし凡ゆる意味に於て座標と関係のないものならばこのような表現式は全く理解し得ない無意味な関数関係に終って了う筈である。それが無意味でないためにはそこに座標が予想されていなければならない。解析的とは幾何学に於ては座標的ということである。空間と数とが直接に対応することである。さて凡そ分類の原理は偶然的であってはならぬ。分類されるべきものの本質に根ざした原理によってのみ分類なるものも許される。然らば座標は幾何学に本質的であるか、数は幾何学に欠くことの出来ない内容であるか。今座標を用いない幾何学乃至数の概念を含まない幾何学の存在を指摘することが出来れば之に対する答は明白である。曰く射影幾何学。それ故解析的方法によっては幾何学を本質的に分類することは出来ない。第二に向の解析的方法は群を通じて行なわれたが、群の概念を借りて試みられた分類と考えても決してそれは本質的ではない。何となれば後に明らかとなるように幾何学は群を以て尽すことの出来ない内容を有つからである。且又射影群に無窮遠要素を付加して類同群を得更に又球円を付加して主群(Hauptgruppe)を得、このようにして種々なる幾何学が分類されるのであるが、このような偶然な要素が偶然に付加(adjunktieren)されることはこの分類が到底必然的でないことを示しているものに外ならない。更に又群による分類法は例えば射影幾何学から出発して一切の幾何学をその Modifikation として導き出す方法に外ならないが、一切の幾何学が射影幾何学であるならばそこには何の分類も与えられはしない。一切の幾何学が或る一つの幾何学に帰するということは幾何学の分類とは問題が別である。射影幾何学に於けるこの関係は反径幾何学(Geometrie der reziproken Radien)に就いても全く同様に指摘されると思う(〔F. Klein, Vergleichende Betrachtungen u:ber neuere geometrische Forschungen, §6, 7〕 参照)。こういう理由からしてクラインの試みた分類法はそのどの着眼点に於ても本質的であったと云われないであろう。併しこのことはこの分類方法が数学自身に於ても本質的ではないということを意味するのでは決してない。数学者は幾何学を論じるに当って幾何学以外の数学の眼を以て之を見る着想の自由が与えられていなければならぬ。ただ私の問題は幾何学が他の数学から区別される処の特徴を見出すことそのことであるのを忘れてはならない。それ故このような麗しい分類法も数学のテクニックに属するのであって、吾々がそれから直接には得る処が少いということは当然であると云わねばならぬ。
 解析的に対するものは総合的である。今総合判断一般と数学的総合判断との区別は後者の基に公理が潜んでいるという点にある。幾何学を総合的に取り扱って分類するにはそれ故各々の幾何学の基礎に如何なる公理が横たわっているかを見定めることが最も正当な道であると云わなければならない。ヒルベルトはその『幾何学の基礎』に於て、結合、順序、合同、平行及び連続の五つの公理群を区別した。私はまずこの公理群に依って幾何学の一応の分類を試みようと思う。連続の公理にはヒルベルトによればアルキメデス公理と完備の公理とが含まれ両者を合せれば所謂デーデキント公理を得る(S. 23)。この公理の上に立つ幾何学はリーマンに始まりクライン等によって発展された位置解析(Analysis situs, Topologie)に外ならないと普通云われている。線、面、立体等の結合(Connexus)及び切断(Conpure)の関係は凡ゆる一対一の連続的変換即ちあらゆる Verzerrung に対して不変に残されるべき性質をもつものである。かかる性質をその対象とするものが位置解析に外ならない。即ち図形に於て縁の数をμ、面を分割しない回線の数をρとすれば、μとρはこのような変形に関らず自らを不変に維持する。今 [#ここから横組み]2ρ+μ[#ここで横組み終わり] をこの面の結合度と定義すれば、あらゆる空間形象はこの結合度を標準として順序づけられる筈である。今もし形象の面の数をF、頂点の数をE、稜の数をKとすれば、位置解析の定理は[#式(fig43263_03.png)入る]なる関係として云い表わされるものでなければならぬ。然るにこの形の定理は普通吾々が表象する裏表を有つ面に就いてのみ妥当し、例えばメービウスの多面体のような図形に於ては行なわれないことを注意したい。即ち或る図形に就いて他の幾何学的見地からして決して問題とはなり得ない処の区別、一側面と二側面との区別が茲では重大な問題となって現われるのを見る。以上の性質は位置解析が他のあらゆる初等幾何学にも先だち且つ何かの意味に於て――その意味は後に明らかとなる――特別の位置を占める幾何学である、ということを暗示するものと云ってよいであろう(〔Klein, Elementarmathematik v. h. S−P. aus S. 237 ff.; Riemann, Die inaugurale Dissertation zu Go:ttingen, etc.〕)。次に結合の公理と順序の公理の上に立つものは射影幾何学である。普通之に連続の公理が加えられるのであるがヴェブレン・ヤングなどが rational space を考えたような意味に於て連続を解するならばこの公理は不必要となる(Veblen−Young, Projective Geometry, I. p. 99 ff.)。併し茲には後に触れるであろう問題が含まれていることだけを注意しよう。さて点、直線、平面等の要素に於て、低次の二つの要素が一つの高次の要素を決定すること、例えば二点が一直線を決定すること、を射影と名づけ、高次の二つの要素が一つの低次の要素を決定すること、例えば二平面が一直線に於て交わること、を截断と名づけるならば、射影幾何学とはかかる射影並びに截断に対して不変に残される要素間の関係をその内容とするものである。次に射影幾何学のこの二つの公理群に次の三つの公理群を加える時、吾々が普通計量幾何学と呼び慣している処のものを得る。即ち合同の公理、平行線公理及び連続の公理がそれである。処が平行線公理、即ち同一平面内に於て一点を過って任意の直線と交わらない直線は必ず唯一つある、ということを意味するユークリッドの公理は、之と矛盾する他の公理によって置き換えられることも可能である。この時ユークリッド幾何学に対して非ユークリッド幾何学を得る。向のような条件を充す平行線が全く許されない時リーマン・ヘルムホルツの幾何学を、又かかる平行線が無限に存在しその一双が特に平行線と名づけられる時ロバチェーフスキー・ボーヤイの幾何学を得るのは何人も知る処であろう。抛物線的、球面的及び楕円的並びに双曲線的幾何学として普通区別される処のものである(Sommerville, Non−euclidean Geometrie, p. 89, etc.)。さてヒルベルトの云うように如何なる公理群も他の公理群とは独立であるとすれば、吾々は任意の組み合せによって生じる公理体系の数だけの幾何学を区別しなければならない筈である。併しながらそのようにして得る分類は縦え論理的には正当であるにしても、その故に直ちに幾何学に対して本質的であるのではない。私はそれ故本質的な分類へ達するのに便宜な手段として特に以上の分類を選定しなければならなかったのである。
 射影幾何学から計量幾何学へ移るに当って加えられた公理群は合同、連続及び平行線のそれであったが、第一に線又は角が合同であるとは何を意味するか。例えば二つの線が等しいという時吾々は両者を重ね合わせて見る外にこれを確める根拠を有たぬ。然るに重ね合わせるとは一を他へまで重ね合わせる運動を含まぬわけにはいかない。素よりヘルムホルツに従ってこの運動を経験界に於ける物体の運動と同じに見ることには多くの危険が伴うであろう。数学の要求は寧ろこのような運動の概念を除外して例えばシュタイナーの構成法の如きものを用いて純幾何学的に同等を定義することに努めるであろう。それ故運動とはこのような意味に於ける観念的運動と考えられるのが正しい(〔Weber−Wellstein, Enzyklopa:die, II. S. 20, etc.〕)。かかる
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