運動によって二つの要素が等しいと認められるためには運ばれたる要素がその運動の間に於て量的に不変であったことを予想することが必要である。即ち一般に要素は自らに同じである――等しいと区別せよ――ということが予め承認されてなければならぬ。ヘルムホルツが幾何学は剛体の自由運動を許すというが、この剛体を純幾何学的に定義する時、この様な自らに同じい要素を考えねばならぬと思う(Helmholtz, Ueber die Tatsache, welche der Geometrie zugrunde liegen. 参照)。併し自らに同じい要素というが何によって吾々はそれが不変であることを知るか。それには或る一定の単位が与えられて之を用いて計量した結果が不変であることを必要とする。それ故自らに同じい要素とはそれ自身計量の単位を意味するに外ならない。従って線や角の合同とは単位による計量を意味する外はない。合同の公理[#「合同の公理」に傍点]は計量を云い表わす。又アルキメデス公理はこの場合このような単位によって或る与えられたる要素の量を計量することそのことを意味する。然らば一歩進めて連続の公理はどうであるか。併し計量とは何であるか。単位を以て数えられる度数を意味するとも考えられるが、単位を以て数えられるためには数えられる要素自身が予め数量的でなければならぬ。若し数量的でないならば単位を以て数えることは無意味である。それは単に数えることであって計量ではない。それ故計量とは計量される要素と数との対応而も直接の対応を予想するのでなくてはならぬ。然るに数と要素との直接の対応というべきものは数の連続に於て始めて許される。数と空間、数と時間などが直接に――一対一の関係で――対応するのはただその連続に於てのみであることを何人も知っている。であるからして合同の公理は数連続体の導入を意味することとなる。連続の公理[#「連続の公理」に傍点]はあたかも之を云い表わすものである。私は以上合同の公理と連続の公理とが立つ根本的な予想即ち、計量――数連続体をば摘出した。平行線公理は之と如何に関係するのかの問題が残っている。線の場合とは異り角の計量の場合には直角という絶対的単位が必ず存在する。この絶対的単位によって計量された対象の metrical property ――それは他の相対的な単位による metrical property とは性質が異るが――を決定するものが平行線公理に外ならない。平行線公理は一見計量とは無関係であるかのように見えるのであるが、それへ計量に基く公理――例えばアルキメデス公理――を付加することによってそれが計量関係を支配する――例えば三角形の内角の和は二直角であるか否か――、という意味に於て計量と関係を持たずにはいられない公理である。結合や順序の公理に於ては全く場合が異るのを思い起こせばこの意味は明らかとなるであろう。平行線公理がこの意味に於ては計量的である所以は更に平行線公理と空間曲率との関係に於ても現われる。平行線公理に曲率という計量的概念を付与すると否とは自由であるが、一旦この概念を付与した以上、平行線公理は曲率の値をある意味に於て決定しなければならぬものである。一言にして云えば平行線公理[#「平行線公理」に傍点]は直角とか曲率とかいう角又は線の計量の絶対的な単位に関係するものである。さて射影幾何学と計量幾何学とを区別せしめたかの三つの公理群は何れも計量を云い表わす公理に外ならないことが明らかとなった。それ故私は一歩を進めて幾何学をば、公理に従って分類するよりも寧ろ公理に含まれる根本的な予想に従って分類することに思い至らなければならない。計量を含む幾何学――所謂計量幾何学即ち座標幾何学は少くともその一部分である――を一般に量的[#「量的」に傍点]幾何学と名づけ、之に反して計量を含まぬ幾何学を一般に質的[#「質的」に傍点]幾何学と名づける。かくて私は始めて本質的な分類を得ると思う。何となれば幾何学が質的であるか量的であるかはそれが本質的であるか本質的でないかの問題となることをやがて吾々は知るであろうから。
幾何学の分類に就いてまだ一つの重大な問題が残されている。私は之に到達することを試みよう。まず注意すべきはライプニツがその「位置解析」という項に於て、代数は合同を即ち量を、之に反して位置解析は類同を即ち形を、従って又質を論じる数学であると述べ、「このような考え方は新しい計算法を示すものである」と云っていることである。それはライプニツによれば「代数的計算とは全く別のものであり、又その記号に於てもその応用とその算法に於ても全く新しいものである。」彼は之を位置の解析と名づけた。「何となればそれは直接に位置を云い表わし、而も形を実際に画くことなくして記号を用いて精神上之を写し、感性的な直観がただ経験的に知る処のものをば正確な計算と証明法とによって符号を用いて導き出すものなのであるから」(Hauptschriften Leibnizeus, I. S. 76)。ライプニツのこの理念が数学的に発展される時どういう形を取るべきであるかはこの場合まだ明らかではないが、少くとも茲に代数的或いは量的という意味が座標的ということであるのは疑う余地もない。それ故ライプニツがこの解析を以てデカルトの幾何学に代えることを要求した処から見ても彼の位置解析なるものと吾々の所謂位置解析(前を見よ)とは全く別のものでなければならぬ。次に又彼が質的と呼ぶ所以は私が向に定義したように計量を含まないということとは全く別であることもその「正確な計算」という言葉が充分に説明している。それは計量を含んでいる。量的幾何学でなければならない。デカルト幾何学に対して質的と呼ばれるのはデカルトに於ては尽すことの出来なかった幾何学の哲学的意味を明らかにしようと欲したからに過ぎぬであろう。ライプニツのこの理念を発展させたものと認められているグラースマンの Ausdehnungslehre に於ては、その広延量乃至は要素量が位置と量値を持つのである(Grassmann, Geometrische Analyse.)。即ちこの場合の要素は質ではなくして明らかに量である。Ausdehnungslehre が縦え座標というような偶然なもの(〔Willku:rliches〕)を許さないにしてもなおそれは「解析の形式」を具えていなければならない(Grassmann, Ausdehnungslehre von 1844, S. 397)。更に又グラースマンの要素量がクラインの云うように(Elementarmathematik v. h. S−P. aus S. 339)類同幾何学の対象に外ならないとすれば、類同幾何学が質的であるかそれとも量的であるかを見てライプニツの位置解析の蔽われた性質を検出することが出来ると思う。処が類同幾何学に於ては距離、角、円と楕円との区別、等の概念はない。即ち合同の公理は成立しないようにも見える。従ってそれは一応質的と考えられそうである。併し例えば射影幾何学に於ては無窮遠点なる概念が除外され得るのに反して茲では要素の有限と無限とは常に区別されなければならない。又円錐曲線の中点、直径、平行、方向、等の概念も許される。それ故類同幾何学は量的であると云う外はない。ライプニツの位置解析も之に準じて観察してよいと思う。さて併し吾々は茲に至って計量幾何学とは異る処の量的幾何学が少くとも一つは存在するということを識った。今両者を区別するものは座標に依るか否かである。併し縦え座標を用いないにしても量的幾何学は解析的でないのではない。クラインの云ったように(前を見よ)解析的とは必ずしも座標的であることを意味しない。併し又すでにその場合明らかにしたように之が座標と無関係であるというのではない。であるから座標を含むか否かは解析に対して根本的な区別ではない。計量に対する根本的な区別とはならない。それ故又量的幾何学の――それは計量を含むものと定義されてある――根本的な区別とはならない。私は量的幾何学を更に分類する理由を発見しない。
之に反して質的幾何学の定義は消極的に――計量を含まない[#「ない」に傍点]幾何学として――与えられてある。之を検べて見なければならない。ケーリが凡ての幾何学は射影幾何学であると云ったが、射影幾何学が又計量幾何学を含むならばその限りに於て量的であると考えられないでもない。射影幾何学に於ても座標があるではないかというであろう。併しながら計量幾何学の座標と射影幾何学の座標――仮に射影的座標と呼ぶ――とは本質的に区別されなければならぬ。今数とは独立な二つの幾何学的構成によって一直線上に点の位置を決定することを夫々和及び積と定義すれば、任意の単位をとる時、この直線上の或る一点を除いた凡ての点は、この和及び積に関して一つの領域(field)をなすと考えられる。然るに他方に於て数体系も同じ領域を造る数から成り立ち得るから、数体系は又一つの領域と考えられる。それ故もし直線上の点の領域と数の領域とを一対一の関係―― isomorphie の関係――に置くならば、直線上のかの一点を除いた凡ての点を数に対応せしめて之を数と全く同様に論じることが出来る筈である。之を射影幾何学に於ては非等質的座標という。今若し除かれてあった特異点――無窮遠点――の特異性を取り去るためには各々の点に夫々一双の数を対応せしめるならば、直線上の凡ての点は例外なく数の一双と対応することが出来る。之を等質的座標という。さてこのような射影的座標はデカルトの座標と同じではない。何となれば後者に於ては数と要素とが幾何学的な乃至は他の如何なる数学に固有な手続きにも依ることなくして直接に対応する。数と直線との対応に於て吾々が先験的に許さねばならぬものはこのような直接さである。然るに前者に於ては対応は決してこのような意味に於て直接ではない。多くの数学者が注意するようにそれが一定の幾何学的な構成を通じて始めて持ち来されるのであるからその対応は間接であると云わなければならない。処が向に計量は後者の場合の如き直接の対応に外ならぬことが明らかとなっている。従って前者の対応は質的となる。射影的座標は質的である。射影幾何学が計量幾何学を含むとは唯だこの質的な座標を通じてのみであると思う。然るにポアンカレは射影幾何学が直線の概念に基く故に質的ではないという、「計量によらない限り、即ち尺度と呼ばれる道具を線の上に滑らせるのによらない限り、その線を直線と確定することは出来ない。尺度とはとりも直さず計量の道具なのである」(〔Dernie`re Pense'e, p. 58〕)。即ち直線は計量によって始めて曲線から区別されるからして量的であると主張する。併し明らかに射影幾何学は直線と曲線とを区別して特に直線をその基礎に置くのではない。茲に必要なものは直線ではなくして異なる線である。二点によって一義的に決定される要素之が線である。併し又吾々はこの線を特に曲線と考える理由を何処にも持っていない。それは或る意味で矢張り直線と考えられる理由はあるであろう。けれどもその故に量的であるのではない。このようにして射影幾何学が量的と考えられる根拠は何れも薄弱である。射影幾何学は質的である。それ故之は又純粋幾何学或いは総合幾何学の名を以て呼ばれているのである。
向に明らかにしたように位置解析(Topologie)は連続の公理の上に立つ。然るに又其の後に連続の公理の導入が計量幾何学の成立する一つの条件であることも明らかとなっている。従って位置解析は量的であると考えられるかも知れない。併しながら私は連続の公理の導入が何故計量幾何学の成立となったかをもう一遍思い出して見る必要がある。即ち合同の公理が数体系の導入を意味し従って数連続体の導入を意味したが、この数連続体の導入を云い表わすものとして、そして唯だその限りに於て、連続の公理が見出されたのであった。それ故この場合の連続の
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