ロ内容に於ける主観性はどうか。表象内容の主観性とは特にある状態を以て感覚し得るという特殊の能力に外ならない。之を空間表象に当て嵌めれば空間表象という状態を以て感覚し得る特殊の能力となる。併し明らかに之は他の主観性から区別された処の特別な主観性ではない。であるから空間表象が特別に主観的であるというのはこのような能力を発揮させる処の動機が、「刺激」が、心自身の中にあるということでなければならない。それ故カントも亦かの心理的刺激の困難に行き当る第三の考え方の一例に外ならなくなる(S. 25 ff.)、というのである。併し所謂特別な主観性をカントの空間説に於ては、第一に、特殊な能力の刺激の内在というようなものにのみ帰して了う必然性はない。あるとすればその必然性は恐らくシュトゥンプフ自身が与えたものではないのか。又第二に特別な主観性として空間の所謂観念性に思いを及ぼさないということは不思議でなければならぬ。認識の先験的制約としての空間の観念性、これこそ空間の「特別な」主観性ではないのか。そしてこれこそ空間の根源性に就いての最も有力な主張ではないのか。カントの思想は決して空間表象の発生の問題に関するのではなくしてこの根源性の問題――之をカントは権利の問題という名で呼んだ――を中心としているものと云わねばならぬ。さて私はシュトゥンプフがロッツェとカントとに加えた批評を検べて見た。シュトゥンプフは両者の真の主張、空間表象は根源的であるという主張を見逃している。併しながらこの誤解は決して偶然ではない。それは彼自身の説――第四の種類の考え方――に深く根差しているのであるから。私は更に彼自身の考え方を批判しようと思う。
空間表象の発生を明らかにすることはすでに述べたように到底不可能と云わねばならぬ。シュトゥンプフによれば空間表象は根源的でなければならない。即ち他の何物かから構成されることによって始めて成り立つものではない。而も彼によれば根源的であるとは感覚がそれ自身説明し得ない直接態であるという正にその意味での直接性を指すものである。空間表象は特有な感覚内容を持っている。それは「色の表象と同様に又同じ意味に於て根源的である」(S. 128)。空間表象は絶対的な感覚内容を持っている、その限り根源的である。処が空間表象の感覚内容は他の感覚内容と結び付いて始めて意識に表われる。先ず「全体的な内容」があってその部分として始めて許される。普通感覚内容が強度や持続と結び付いていると同じ意味に於て空間は他の感覚内容と結び付いている(例えば色と延長のように)。空間表象はこのような「部分的内容」でなければならぬ。併し部分的内容と云ってもその結び付きの相手と何処かで区別される処がなければ部分とさえ云えない。空間とは他の内容から抽象[#「から抽象」に傍点]されたものである。けれども他の内容を捨象[#「を捨象」に傍点]することではない。他の内容を顧慮しない[#「顧慮しない」に傍点]にしても之を全く忘れて了うことではない。例えば視覚内容は色々に変化する、併し変化する仕方そのものを吾々は区別して知覚することが出来るであろう。之が部分的内容となる空間表象である。又感覚内容の一部分は変化するが他の一部分はその変化に際して変化しないと考えられる、それが空間表象である(S. 137, 138)。であるから全体的な内容はなる程部分的内容に分割されることは出来る、併しそれは「外見上」の分割に過ぎない(S. 139)。空間表象はこのような意味で或る全体的内容の部分的内容である。その根源性はこれに基いている、というのである。シュトゥンプフは空間表象――それは一つの感覚内容である――と他の感覚内容とが不可分であることを指摘するのに色と延長との関係を一例として提供する。色と延長とは各々独立に変化することが出来る。一定の拡りが赤ともなり青ともなると同時に、一定の赤が大きくもなり小さくもなる。併しながら色と拡りとが独立に存在し得るのではない。ある拡りを持った赤が、その拡りを次第に小さくして零とすれば、これと共に赤も突如として無色となる。即ち少くとも色の存在は形の存在に依存している、と(S. 139)。併し之に対して私は次のように論じることが出来る。例えば赤い円が次第に小さくなって零となれば赤も消えるというが、逆に赤い円の色が次第に褪せて無色となったとすれば如何なるか。なる程円という形も消えて了うかも知れない。併し形が消えても空間表象が消えたことにはならない。円はそのままでありながら赤い色が円周から次第に褪せて行く――即ち赤い円が次第に小さくなって行く――とも考えられるから、円が消えたと見え[#「見え」に傍点]てもそれと同時に円の元のままであると考える[#「考える」に傍点]ことも出来る筈である。であるから縦え形が消えたというにしても空間表象が無くなったことにはならない。それ故円の赤い色が消えても円が或いは少くとも延長が消えるということはない。明らかに空間が存在しなければ色は存在しない。併しその逆は必ずしも真理ではない。一体色が存在するというが存在とは何か。それは明らかに空間的存在の外ではない。そうとすれば存在とはこの場合要するに空間のことである。であるから延長と色とが独立に存在し得ない、従って延長はその存在を色に負うている、という推論は無効である。さて以上のことは空間が色と――一般に又他の感覚内容と――同格の感覚内容ではないということを示している。その理由は正に次のことの内にある。即ち空間は延長と形との両面を持っている、形が消えても延長は消えない。然るに色はこのような両面は持たない。赤が消えても色一般は消えないというかも知れないが、吾々は色一般の感覚は持たない。赤と色一般とは同格の内容ではない――形と延長とは何れも表象し得るという点で同格である。表象された空間はシュトゥンプフ自身の云うように多数の印象ではなくして一つの統一でなければならぬ(S. 126)。即ち一つの形は直ちに空間全体への関係を含むことがその特色である。一つの形は全体へ「拡張され得る」ものでなければならぬ。空間は一つである。此処という位置の感覚は彼処という位置の感覚を呼び起こさぬ限り此処の感覚とはならない。然るに赤の感覚がこのような意味で青の感覚を呼び起こすのではない。このことも亦空間表象の両面性という事情に基いている。空間表象は他の感覚内容と同格ではない。であるから又所謂部分的内容という考えもそのまま承認出来なくなる。抑々視空間と例えば触空間との関係はどう考えられるか。シュトゥンプフによれば何れも根源的であって而も両者は一つの「体系」を造る(S. 278)。二つの空間のこの「統一」は根源的な知識(〔uranfa:ngliche Erkenntnis〕)というの外はない(S. 288)。併し今視空間を視覚の部分的内容とし触空間を触覚の部分的内容とすれば、視覚と触覚とは明らかに別であるから、二つの部分的内容が一つとなることは保証されていない。それが根源的な知識であるためにはその統一は視覚にも触覚にも属さない或るものでなくてはならぬ。即ち二つの空間は部分的内容であるにしても又同時に全体的内容とは独立な統一を持っていなければならなくなる。従ってもはやシュトゥンプフの定義したような部分的内容ではなくなって了う。処がこのことは空間のみが有つ特色である。他の感覚内容は二つ以上の感官に共通であることはない、触覚はただ触官にのみ属している。即ち空間は他の感覚内容と同格な意味で部分的内容であるのではない、ことが明らかとなった。空間表象はこの意味に於て他の感覚内容とは独立でなければならぬ。処が今まで空間表象が根源的である所以はそれが感覚内容であったということに、即ち他の感覚内容と同格な内容であるというにある筈であった。然るに空間は同格ではなくして独立であることが示された。それ故シュトゥンプフの立場からすれば――空間表象は感覚的内容を持つという立場――空間の根源性は否定されなければならなくなる。向に述べたロッツェとカントに対するシュトゥンプフの批評は彼がロッツェ及びカントに於ける空間の根源性をこの理由からして否定している現象に外ならない。而も二人はシュトゥンプフの解釈とは正反対に空間の根源性を主張した。即ち彼をして誤解せしめた処のものは正に、空間表象が感覚的内容を持つという立場そのものである。であるから空間が根源的であるのを知るためには空間感覚[#「空間感覚」に傍点]及び空間知覚[#「空間知覚」に傍点]という概念を放擲しなければならない。このような概念に執着する限り如何なる心理学者も――シュトゥンプフすらも――空間の根源性を摘出することは出来ないであろう。
空間感覚或いは空間知覚という概念に較べれば空間直観[#「空間直観」に傍点]という言葉はより有効に用いられる。向に直観は思惟に対する制限として消極的に定義されたが――二を見よ――今の場合には仮に直観をば感覚を含む場合と之を含まない場合とに区別しなければならぬ。もし普通に直観は凡て感覚を含むものと定義されているならば之を感覚を含まないものにまで拡張しなければならぬ。感覚を含むものを経験的直観、感覚を含まないものを之に対して仮に純粋直観と名づけよう。然るに空間表象は前に述べたことによって感覚を含むべきものと考えてはならない。言葉を換えて云えば空間表象の内に感覚が位置を占めて現われるのは差閊えないが、空間表象自身が感覚に由来する――そうすれば空間感覚或いは空間知覚の概念を生じる――のであってはならない。故に空間表象は純粋直観である。併し無論逆に純粋直観が凡て空間表象であるのではない。例えば時間のようなものも純粋直観であるかも知れない。空間表象はどのような純粋直観であるか。意識が何であるか外的世界が何であるかは困難な問題であろうが、少くとも両者の間に何か一義的な区別のあることは誰でも認めなければならぬと思う。今この区別を内界と外界という言葉を以て云い表わせば空間表象が外界に関わることは明らかである。空間は外的な純粋直観でなければならぬ。Hinschauen(フィヒテの言葉)と云うことが出来る。先ず空間直観の概念を茲まで決定することが出来ると思う。ロッツェが空間表象を外的直観と呼んだのは之に相当すると解釈出来るであろう。処が彼は向に引用した文章の示す通り、この空間表象をば無条件に承認せねばならぬものと主張する。即ち空間は根源的な純粋直観でなければならぬ。吾々は空間表象に就いて語る時には先ず空間表象そのものを予想しなければならない。無論この予想を証明しようとすることは――ヘルバルトやベーンが試みて失敗したように――不可能である。併し予想を証明するということと、予想を予想として承認し而る後にその予想が何を意味するかを説明するということとは全く別である。であるから空間の根源性という予想を証明しようとすることが失敗に終ったにしてもその故にこの予想を何かの意味に於て説明するということまでが不可能に終る理由はない。吾々が或る何物かを予想する時少くとも吾々がその予想を採らねばならなかった所以を justify 出来るのでなければならぬ。単に空間を予想しなければならぬと云うばかりではなく更に何故に之を予想しなければならぬか、云い換えれば予想そのものがどういう意味を持っているか、を云い表わす仕方を発見することが必要である。空間表象の根源性を説明し得るもの――証明し得るのではない――はカントの観念論に外ならない。カントによれば空間は外観の形式、外的直観の形式である。という意味はカント学徒の云う通り空間が外界成立の規範であり範疇であるということである。併し範疇であると云ってもカント自身の云っている通り空間がカント自身の意味した範疇であるというのではない。空間は直観である。即ち思惟――悟性――ではない。然るに範疇は悟性概念に外ならない。それ故空間が範疇であるという意味は、空間は直観であることそのことによって範疇として
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