盾せねばならぬ。のみならず、仮設によってBとCとは異る筈であるのに、(一)[#「(一)」は縦中横]と(四″)[#「(四″)」は縦中横]とからしてB≡Cでなければならなくなって、茲にも矛盾が生じて来る。即ちこの変換は(1′)[#「(1′)」は縦中横]を不変のまま残さぬと共に又変換の結果をも矛盾に陥れて了う。以上のことは次のことを云い表わしている、「要素ABCを含む公理体系がAとCとの交換によって不変であるためには」少くとも(1′)[#「(1′)」は縦中横]のような公理体系を選んではならない、且つ少くとも(1)[#「(1)」は縦中横]を選べば充分である、と。云い換えれば括弧内の条件はABCの公理体系を選ぶ標準に外ならない。今Aを点、Bを直線、Cを平面とすれば、括弧内の条件は点と平面との双関性(〔Dualita:t〕)となる。それ故双関性は幾何学の公理体系を選ぶ時に必要な標準――少くともその一例――であることが明らかになる。一般的に云えば幾何学者の任意も特定の公理を特定の仕方に於て選ぶ限りに於て許されるに過ぎない。この特定という関係が偶々――その根拠は後で与える――公理を経験乃至直観に由来するものと考えさえ又要素を経験的な乃至は直観的な内容あるものと思わせたのである。幾何学には単なる任意によっても尽されない処の固有なもの――幾何学的なるもの――がある。茲に任意とは論理的矛盾を含まぬこと、云い換えれば思惟の可能性を意味する。故に幾何学的なるものは思惟の可能性に対する或る種の制限を云い表わす。幾何学はそれ故思惟によっては尽すことの出来ない何物かを持っているという結論に私は到着することとなる。

 思惟は幾何学に於て思惟ならぬ或るものに逢着することが明らかとなった。思惟ならぬもの、之を私は一般に直観と定義する。幾何学の基礎には直観がなければならぬこととなる。然るに凡ゆる要素体系――数学の対象一般――には同じ意味で直観が潜んでいると想像出来る。もしそうでなくして直観はただ幾何学にだけ特有のものとすれば問題はない。今仮りに幾何学以外の要素体系の凡てか又はその一部分のものの基礎に直観が潜んでいるとする。そうすれば幾何学の基く直観は他の要素体系の基く直観とは少くとも異っていなくてはならない。何となれば幾何学は他の要素体系には決して属すことが出来ないということを私はすでに証明して置いたのであるから(思惟は常に同一の機能であると仮定して)。それ故何れにしても幾何学にはそれに固有な直観がなければならない。幾何学的直観、それが今までに取り出すことの出来た名称である。無論この名称に相当する概念内容が何であるかは積極的にはまだ何処にも示されてはいない。

   三

 私は問題の方向を変えて人々が一概に空間表象と云い慣わしているものの性質を検べて見たい。シュトゥンプフは空間表象に就いての考え方を次の四種類に区別した(C. Stumpf, Ueber den psychologischen Ursprung der Raumvorstellung)。一、空間表象は任意の単一な感覚内容(〔Sinnesqualita:ten〕)から生じるものであって、空間という特別な内容があるのではない、とするもの。二、空間表象という特別なものがあってそれが特殊な感覚――運動感覚など――の性質である、とするもの。三、空間表象という特別なものがあって而もそれが少くとも直接には感覚から生じるものではない、と考えるもの。四、空間表象という特別なものがあって而もそれは他の感覚内容――色などの――と相俟って或る不可分な内容の部分にすぎない、と考えるもの、の四種類である。私は今シュトゥンプフに従ってこの一つずつの例に就いて考えて見る必要がある。ヘルバルト――第一種類の一例――によれば吾々は眼又は指を動かすことによって一つの続起する表象の系列を得る。そして現在知覚されつつある表象が最も強くこれに先立てば先立つ程他の表象は弱い。今眼又は指を動かし返す時、記憶に残っている以上の系列が再び呼び起こされ而もその強さの順序は前の順序に相当するであろう。感覚内容のこのような続起がとりも直さず空間である、という(S. 31)。なる程空間表象が発生する条件は之によって云い表わされているかも知れぬ。併し条件が直ちに空間表象そのものとはならぬであろう。このような条件に従う処の条件そのものではないものがなければならぬ。この点から見てこの考え方は空間表象の発生そのものを説明することは出来ない。空間というものを予め想定した上で始めて許される考え方である。而もシュトゥンプフの批難するように例えば時間を取って来るにしてもヘルバルトの空間に就いての説明をそのまま繰り返すことが出来るであろう。即ちこの条件を充すものは空間だけではない。のみならずこの条件を充さないものでも尚空間表象と考えられるものを挙げることも出来る。空間の定義とすら見ることは出来ないと思う。ベーンは――第二種類の一例――運動感覚を用いて空間表象を説明した。時間表象に於ては運動感覚が触感と結び付いていないか或いは結び付いているにしてもその触感が不変である。然るに空間表象に於ては之に反して運動感覚に触感が必ず結び付いていて而も之が変化する。空間とはこの変化する触感が一定の順序を形造りそれが運動を逆にすれば逆となり運動を繰り返せば繰り返す、ということに外ならない、という(S. 44)。即ちベーンの考え方がヘルバルトの夫と異る点は運動感覚を用いたことと、時間と空間との区別を明らかにしたこととにある。併し運動感覚を導き入れて考えるにしてもヘルバルトに対して与えた批評は矢張りそのまま繰り返される筈である。又時間と空間との区別は与えられるにしても、例えば音の感覚の系列と空間との区別はこの考え方に依っては説明されない。それ故私はベーンに対してもヘルバルトに対すると全く同じい批評を繰り返すの外はない(S. 55)。第三種類の考え方の例としてはヴェーバーを採ることが出来る。空間感覚は彼によれば「一般感覚」でなければならぬ。ヘルバルトが任意の一つの感覚内容によって、又ベーンが運動感覚を基礎として、夫々空間の発生を説明しようと企てたのとは趣を異にして、空間とは特別の神経或いは感覚内容の特別の一群に基くものではなく、一般的に視神経と触神経とに於ける神経の固有な配置に由来するものである、と説く。感覚圏の説が之である(S. 77)。即ちヴェーバーによれば、先ず感覚内容が与えられてあるとして、この感覚内容がその内に含まれてはいなかった処の特殊の配置に分布され、この配置によって空間表象が生じるというのである。処でシュトゥンプフは次のように論じる。併しこの配置に「よって」とは何を意味するのか。配置そのものは解剖的な関係に過ぎない。之が心理的な空間表象であるというのではない。とすれば「よって」とはこの配置が原因となるという意味の外にはない。処が物理的な刺激は原因となって起こし得るものは空間ではなくして感覚内容の性質――赤いとか冷たいとかの――に過ぎない。それ故この配置が空間表象の原因となるには物理的な刺激が原因であるという意味でのように直接な原因であることは出来ない。即ち今の場合の原因は物理的な原因ではなくして心理的な仲介者を意味しなければならぬ。シュトゥンプフは之を「心理的刺激」と名づけた。然るにシュトゥンプフの証明しているようにこの心理的刺激という概念は結局許すことの出来ないものなのである(S. 93 ff.)。従ってヴェーバーの試みも依然空間表象の発生を説明することは出来ない。却ってそれは空間表象なるものを始めから想定した上で加えられた説明に過ぎぬと云わねばならぬ。さて私は四つの種類の考え方の内最初の三つのものの正当でないことをばシュトゥンプフと共に知ることが出来た。共通の欠点は何れも空間表象の発生を説明するに当って寧ろ却って空間表象を予想しているという循環にある。さて之は次のことを裏書きするものである、空間表象の発生は到底説明することが出来ない、云い換えれば空間表象は根源的でなくてはならない、ということ。
 シュトゥンプフは更に第三の種類の考え方の一例としてロッツェを批評する。シュトゥンプフの解釈に従ってロッツェの所謂局所徴験を一言しよう。例えば種々の色が空間上何処かに位置を占めるというようなことはどうして起こるか。解剖的に位置を異にした神経が刺激を受けるからであるとするのは云うまでもなく充分ではない(これはヴェーバーに対する批評を見れば明らかである)。ロッツェは異った位置――それは網膜の上の点によって代表される――には夫々その位置に固有な感覚乃至は神経過程が備わっているとする。之が局所徴験に外ならない。局所徴験が眼球の適当な運動や或いはその運動の感覚や乃至は運動しようとする努力などによって表わされるというが、何れにしても定位 Lokalisation を与える原因がこの局所徴験なのである。之がロッツェの思想である。さてシュトゥンプフの解釈によればこの定位がとりも直さず空間表象に外ならない。従って局所徴験は空間表象の「原因」であることになる。而も「原因」はヴェーバーの感覚圏の場合と同じ理由によって心理的刺激という困難な概念に帰着して了う。依ってロッツェの考え方も空間表象の発生を説明するには不適当である、というのである(S. 86 ff.)。之に対してロッツェ自身次のように云うて反駁している、「私の試みは感覚の定位[#「定位」に傍点]ということに終始するのであって」「吾々が如何にして空間表象に来るか[#「空間表象に来るか」に傍点]を示そうと企てたのでは決してない」と(S. 321−2, Mitteilung Lotze's)。之を見ると問題は空間内の定位と空間表象とが同一であるか否かにあることは明らかである。併し之を一般的に決定することは今の場合は必要がない。ただ次のことだけは確かである、即ちロッツェ自身が両者を区別した以上之を同一と考えることはロッツェに就いての解釈としては正しくない、と。事実ロッツェは『形而上学』に於て非空間的な心理要素から空間表象の一般的な性質―― Nebeneinander ――を導き出すことが不可能であるのを主張し(シュトゥンプフがロッツェに於て求めているものが正にそれの可能性である)、もし非空間的な雑多を空間として把握する能力を与えられてあるものと仮定すれば、第二の課題として定位の問題を解決することは可能である(Metaphysik, S. 232―Ph. Bibl.)と明言している。即ちロッツェの局所徴験は空間表象の発生の説明を目的とするものではなくして、ロッツェは却って根源的な空間表象を基礎としていることを之によって意識しているものである。ロッツェの本来の主張はシュトゥンプフの解釈とは正反対に空間の根源性――シュトゥンプフ自身の求めているもの――そのものにあるのである。シュトゥンプフは又カントの空間説に対しても彼特有の批評を与えている。空間の主観性、主観的ならぬ表象はないのであるから、空間の特別な主観性、之はカントに於て何処に現われるか。シュトゥンプフによれば一般に表象に就いて次の三つのものを区別することが出来る。即ち表象される内容、表象作用、並びに表象成立の条件。第二の表象作用とは精神の働き方というようなものを指す。例えば感覚内容をば精神が働いて空間に順序立てる場合にはこの働きが所謂作用に相当する。併し空間的順序そのものが空間であるのではない。空間とは空間的順序の根柢(Fundament)でなければならぬ。それ故縦え空間的順序が表象作用に依るからして主観的であると云っても、空間的順序そのものの根柢となる空間が主観的であるということは何処からも出て来ない。次に空間は空間表象成立の単なる条件でもない。空間自身が表象されるのでなければならぬ。吾々は空間を直観するのである。それ故条件が主観的であっても空間を主観的と考える理由はない。それでは最後に表
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング