して常識的に数と呼んでいるもの――それは何かの内容を含む処のものである――に外ならなかった。処が数学者の数概念は之と同じではない。在るということ以外には全く無内容な所謂要素(Elemente)に一定の公理を与えて定義された一つの要素体系、之が数である。このような要素体系としての数の権利はまだ決定されていないではないか、之が残された疑問である。それ故前の問題は拡張されてこう変形される、一般に任意の要素体系―― 〔Menge, Ring, Gruppe, Ko:rper, etc.〕 ――が幾何学に於て持つ権利を決定せよ、と。併しこの新しい形の問題も数に就いては前の考察をそのまま繰り返す結果となる。何となれば右のように定義された数――それは範疇的である――も実は吾々が常識的に持っている数概念と対象としては全く同一なのであるから。けれども新しい形のこの問題は他の方面に於て一つの新しい考察を要求する。というのは数体系を外にして幾何学と密接な関係を有つ要素体系は云うまでもなく群である。問題は群が幾何学に対して持つ権利を決定することに移る。群の幾何学的図形に対する応用として屡々図形の回転が論じられる。図形の回転が一つの不連続群をなすことは可能である。併しながらそれは応用と云うよりも寧ろ或る種の群の例であるに過ぎない。吾々の問題は群が幾何学そのものに対する応用にあるのである。普通幾何学は群論に還元されると云うのであるが、吾々は之をどれ程の意味に解してよいか。ヘルムホルツは「自由なる運動」という概念を用いて計量幾何学の基礎を築いたが、この運動とはリーによれば一つの連続群、即ち一種の変換群(Transformationsgruppe)と考えられるべきものである。リーマンが曲率に基いて与えた計量幾何学の分類はこのような変換群の相違を規準として行なわれる(Lie, Transformationsgruppe. 3)。更に一般的に云うならば凡ゆる幾何学は変換群なるものの種々な性質を規準として分類されねばならぬ(一を見よ)。さてこの変換群とは何か。群は一般に、一つの同一要素と逆要素を含み任意の要素の積が一つの要素となるような要素体系、と定義される。変換群はこのような一般的な群の特殊のもの――要素が変換である処のもの――と考えられるのは云うまでもない。今その要素Aは変換「すること」そのことに外ならないが併し変換するためには予め変換されるものがなければならぬ筈である。何物かが変換されるのでなければならぬ。今もしこの「何物か」が他の一つの要素Bであるとすれば、AはBに依存することとなって之は無意味に終って了う。それ故この「何物か」はA自身に就いて見出されなければならない。この意味に於ての変換される「何物か」が必要となる。処がこのことは一般的な群そのものにとっては不必要であると云わねばならぬ。即ち之は変換群に付加された特殊の内容に外ならない。この特殊の内容とは何か。今この特殊内容を一般的に決定する代りに一つの条件を入れて考えて見よう。即ち適当な――吾々が常識的に幾何学と呼んでいる処のものを成り立たせるような――変換群を撰ぶとき、それは Untergruppe として、最小の群即ち主群を含んでいる。私は主群によってこの特殊内容の一端を窺いたい。主群とは運動、相似変形及び Spiegelung、並びにこれ等の結合からなると考えられる変換群をいう。併しこの運動は運動するものがなければ意味がない。縦え図形を予想しないまでも少くとも位置というものだけは許さなければならぬ。他の二つに対しても同様に夫々絶対的な大きさ及び要素の順序を許す必要がある。そして許さなければならぬこの三つのものこそ主群が有っている所謂特殊内容に外ならない。更に主群に於てそれ自らに変換する要素――同一要素――を考える時、例えば運動に就いては位置の不変が丁度之に相当するであろう。併し位置の不変ということは無限に多く――此処にも彼処にも――あると云わねばならぬ。然るに群の同一要素は定義によれば唯一つの筈である。処が矛盾とも見えるこの結果は却って変換そのものと変換されるものとの区別を明らかにするものに外ならないと思う。之が特殊内容である。それ故変換群は少くともこのような意味での特殊内容を含む可能性を有っていると云わなければならぬ。変換群が幾何学の根本的概念となるとすれば、茲に群そのものの外から之に付加された偶然な内容が潜入しているのを見逃すことは出来ない。であるから幾何学が群論に還元されるということは少くともそれが群論の総論に還元されることではない。事実幾何学はクラインの云うように変換群に就いての不変量理論(Invariantentheorie)なのである。即ち変換論とも云うべきものなのである(上掲著書参照)。然るにこの不変量とは何か。変換によっては変換されないものがそれである。処が変換自身は変換によって変換される群の要素に過ぎない。それ故不変量は変換それ自身以外のものに求められねばならぬ。然るに変換それ自身以外のものとは前に決められてあるように変換される処のものに外ならない。不変量は変換される処のものの内に求めなければならぬ。即ち不変量とは変換される処のものの間に於ける不変な関係であるより外に道がない。それ故不変量は向に変換群に於て見出された「何物か」の内容の一部である。不変量とは変換される処のものと共に、変換群の所謂特殊内容を成り立たせるものと云わなければならぬ。再び主群を借りて之を説明すれば、運動という変換に於て、変換されるものは位置であった。今運動という変換によって変換されない不変的な関係を求めると一定の図形というものが之に相当するであろう。図形は運動(変換)によって位置(変換される処のもの)を変えるが図形(変換に於ける不変量)自身は変らない。運動なる変換群に於ける特殊内容、それは位置と図形の外ではない。さて特殊の内容を此の点まで規定することが出来た以上、幾何学の対象が群乃至群論に還元されるということは一つの見落すことの出来ない条件を加えた上で始めて許される、ということとなる。茲に群が幾何学に対して持つ権利の限界があると考える。之がこの場合の結論である。群が何故に幾何学の本質的な分類を与えることが出来ぬかと云う理由は又この内に含まれている。
この結論と前段の数に関しての結論とは更に次の帰結へ導く、幾何学はそれ自身以外の要素体系の内に属することは出来ない、と。従って吾々は自ら、幾何学という要素体系が在るか無いか、在るとすればどのような特質を持った要素体系であるか、の問題へ逢着する。然るに射影幾何学が存在するということ自身が問題の前半を決定している。従ってただ、幾何学は要素体系としてどういう特徴を有つか、の問題だけが残るのである。幾何学の要素は普通点、線、面などと考えられる。ユークリッドによれば、点は部分のないもの、線は幅のない長さ、等と定義される。この定義は点や線を説明して吾々へそれを容易に表象出来るように教えるものである。之によれば幾何学の要素は経験乃至直観から由来することとなる。併しこのような経験的な乃至は直観的な内容を持つと考えられる要素は、幾何学を一つの要素体系と呼ぶ意味での要素ではない。何となれば数学に於ける要素とは丁度このような内容をば含まないものであった筈であるから。それ故今の場合点、線、面などの概念はそれ自身には無内容なものであることを一応承認しておく必要がある。要素は undefined term である。その上で之を概念的に――直観的にではなく――即ち純幾何学的に改めて定義しなければならない。この定義が即ち公理――法則ともいう――に外ならない。公理が経験乃至直観に由来するであろうとは恐らく多くの人々の信じる処である。権威ある数学者にも之は決して少くはない。公理は「自然物」の「観察に直接に基く」(〔Pasch, Vorlesungen u:ber neueren Geometrie, S. 16−17〕)とも、自然物の観察からの抽象である(Schur, Grundlagen der Geometrie)とも考えられよう。私はこれの真偽を決定しようとは思わない。唯だ此の人々は何故にかくなくてはならぬかを証明することなくして単に常識的にかく主張するに過ぎない。この問題は幾何学自身にではなくして幾何学の Genesis ――それは幾何学の推論の内には少しも姿を現わさない――に属しているのであるから、勿論之は此の人々への批難とはならない。と同時に之は又此の人々に何の論拠を提出するものでもない。であるから此の人々は、幾何学の公理は経験乃至直観と何の関わる処もなく唯だ数学者の任意によって産まれるものである、という主張――公理主義――に対して戦う武器を有ってはいない。実際幾何学に於ては経験乃至直観の「事実」に表われない公理、又はそれと矛盾する公理を構成する自由がなくてはならぬ。併しそれであるからと云って公理が全く任意に構成されたものであるということには決してならない。例えば二点が一直線を決定すると云う時、それが何故二直線を決定してはならないのか。点、直線などと云う要素が全く未知の概念である以上之は論理的な矛盾を含む筈はない。それにも関らず後半の仮定が幾何学を構成するのに不適当――不便であるからか否かは知らない――であるとして斥けられるとすれば、このように選択を与える何かの標準がなければならない。とは云うもののそのような標準は公理の内からは少くとも直接には見出せない。処が幾何学はただ一つの公理からは、即ちそれからの直接推理によっては体系を構成することは出来ない。幾何学は公理体系に基く。それ故求められた標準は公理体系、云い換えれば公理と公理との関係に於て見出されるであろう。然るに公理と公理とは互に矛盾しないという条件の下で互に独立であるから、どの公理とどの公理とを選ぶかは又一つの任意とも考えられる。併しもし之が任意ではないということが証明されたとすれば、如何なる[#「如何なる」に傍点]公理を如何に[#「如何に」に傍点]選ぶかの標準が一遍に発見されるわけである。私はこの証明を試みよう。まず形式的に三つの異った要素をA、B、Cとして適当な条件の下に、
┌(一)[#「(一)」は縦中横]二つのAが一つのBを、
(1)[#「(1)」は縦中横]│(二)[#「(二)」は縦中横]三つのAが一つのCを、
│(三)[#「(三)」は縦中横]二つのCが一つのBを、
└(四)[#「(四)」は縦中横]三つのCが一つのAを、決定するものとする。今AをCによって、CをAによって置き代える時には(1)[#「(1)」は縦中横]は(三)[#「(三)」は縦中横](四)[#「(四)」は縦中横](一)[#「(一)」は縦中横](二)[#「(二)」は縦中横]の順序となるだけであるから(1)[#「(1)」は縦中横]そのものは不変である。処が(四)[#「(四)」は縦中横]の代りに
(四′)[#「(四′)」は縦中横]二つ[#「二つ」に傍点]のCが一つのAを決定する、を置き代え、(1′)[#「(1′)」は縦中横]即ち(一)[#「(一)」は縦中横](二)[#「(二)」は縦中横](三)[#「(三)」は縦中横](四′)[#「(四′)」は縦中横]に前の変換を行うと(1′)[#「(1′)」は縦中横]は
┌(三)[#「(三)」は縦中横]二つのCが一つのBを、
(1″)[#「(1″)」は縦中横]│(二′)[#「(二′)」は縦中横]三つのCが一つのAを、
│(一)[#「(一)」は縦中横]二つのAが一つのBを、
└(四″)[#「(四″)」は縦中横]二つのAが一つのCを、決定することとなり、(1″)[#「(1″)」は縦中横]の(二′)[#「(二′)」は縦中横]と(四″)[#「(四″)」は縦中横]は夫々(1′)[#「(1′)」は縦中横]の(四′)[#「(四′)」は縦中横]と(二)[#「(二)」は縦中横]とに矛
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング