の要素体系と呼ぶ意味での要素ではない。何となれば数学に於ける要素とは丁度このような内容をば含まないものであった筈であるから。それ故今の場合点、線、面などの概念はそれ自身には無内容なものであることを一応承認しておく必要がある。要素は undefined term である。その上で之を概念的に――直観的にではなく――即ち純幾何学的に改めて定義しなければならない。この定義が即ち公理――法則ともいう――に外ならない。公理が経験乃至直観に由来するであろうとは恐らく多くの人々の信じる処である。権威ある数学者にも之は決して少くはない。公理は「自然物」の「観察に直接に基く」(〔Pasch, Vorlesungen u:ber neueren Geometrie, S. 16−17〕)とも、自然物の観察からの抽象である(Schur, Grundlagen der Geometrie)とも考えられよう。私はこれの真偽を決定しようとは思わない。唯だ此の人々は何故にかくなくてはならぬかを証明することなくして単に常識的にかく主張するに過ぎない。この問題は幾何学自身にではなくして幾何学の Genesis ――それは幾何学の推論の内には少しも姿を現わさない――に属しているのであるから、勿論之は此の人々への批難とはならない。と同時に之は又此の人々に何の論拠を提出するものでもない。であるから此の人々は、幾何学の公理は経験乃至直観と何の関わる処もなく唯だ数学者の任意によって産まれるものである、という主張――公理主義――に対して戦う武器を有ってはいない。実際幾何学に於ては経験乃至直観の「事実」に表われない公理、又はそれと矛盾する公理を構成する自由がなくてはならぬ。併しそれであるからと云って公理が全く任意に構成されたものであるということには決してならない。例えば二点が一直線を決定すると云う時、それが何故二直線を決定してはならないのか。点、直線などと云う要素が全く未知の概念である以上之は論理的な矛盾を含む筈はない。それにも関らず後半の仮定が幾何学を構成するのに不適当――不便であるからか否かは知らない――であるとして斥けられるとすれば、このように選択を与える何かの標準がなければならない。とは云うもののそのような標準は公理の内からは少くとも直接には見出せない。処が幾何学はただ一つの公理からは、即ちそれからの直接
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