能によって決まって来るということは、当然である。その逆でないことは常識だ。従来の美学は之を乗具[#「乗具」に傍点](例えばT・フィッシャー)と呼んで来ている。言語(又文筆)を乗具とする認識は、文学だ。之と比較して、映画というメカニズムを乗具とする認識が所謂映画なのである。
 で私は、映画理論の根本問題は、映画という文化史現象や芸術現象等々に関するものとしてよりも先に、まず認識論的なものでなければならぬと考える。映画の芸術性も認識[#「認識」に傍点]の様式として初めて、映画固有の形の下に捉えられるだろう。根本問題は、映画が芸術であるかないかとか、又如何なる映画が芸術であるか、というようなことより先に、映画という認識手段が、人間的認識の歴史に於て如何なる役割を果しているか、ということの現実的な分析にあるだろう。単に映画には映画特有の芸術性や又一般の機能があるからそれを尊重せねばならぬ、と云うだけではないのだ。映画が人類の進歩的な認識機能であるということの、認識理論上の充分な自覚が必要だというのである。――映画が芸術として又(実は同じことに帰着するが)娯楽として通俗に理解されていることは、勿
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