からなるというような意見が有力であるが(M. Schlick; P. Frank など)、之は恰も模写説に反対せんがためにそういうのである(P. Frank, Theorie de la connaissance et physique moderne, p.31―1934)。だからこそ吾々は科学が知識[#「知識」に傍点](それは模写だった)の[#「の」に傍点]組織だということを強調する必要があったのである。
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 で、科学は別に特別な知識ではなくて、結局は知識(Wissen)そのものにすぎない。ただ諸実在部分の実在上の集団化・凝結結晶に相応して、夫々一個の単位[#「単位」に傍点]としての統一を受け取った限りの知識集団・知識組織が、科学の資格を持った知識となる*。だから科学は一方に於て、総括的な唯一の単数名詞であると共に同時に又複合名詞でもあるのであるし、他方に於ては、諸科学の体統に於ける夫々の任意のブランチが、夫々一個の独立[#「独立」に傍点]な科学となることも出来る。諸科学の独立・対立による科学分類[#「分類」に傍点]はその客観的根拠をここに持つのである(科学の分類に就いては後を見よ)。
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* 科学が普通、「根本的で完全した知識[#「知識」に傍点]」などと考えられるのも、この意味からである(例えば B. Bolzano, Wissenschaftslehre Vorrede の如き)。
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 科学と単なる知識との区別が、科学の体系・組織にあるとして、この体系・組織は云うまでもなく体系づけられ組織づけられた結果に他ならないから、そこには当然、体系・組織づけの方法[#「方法」に傍点]がひそんでいる。ヘーゲルは組織に対して方法を軽んじるが、体系と方法とは対立するものではなくて単なる裏表にすぎない。そこで、科学はその方法[#「方法」に傍点]によって、単なる知識から区別される、ということになる。科学の方法が何であるかに就いては、今ここで述べているわけには行かない(第三章を見よ)。
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 だが科学と単なる知識との間の、もう一つの大切な区別は、科学は単に個々人の主観に於て横たわる処の知識とは異って、社会に於て公共的に成り立つ処の、一つの客観的[#「客観的」に傍点]な存在だという処に存する。実は知識と雖も多くの場合、単に個人が主観的に持つ認識内容には限らないのであって、それが客観的な事物の反映・模写であった限り、社会に生存しまた生存した又生存するであろう他の多数の個人も亦、之を公有し得るのが当然だろう。知識も亦社会的に普及され歴史的に伝えられることが出来る。だが、之が著しく高度に公共化し又著しく判然と伝承され得る場合は、他でもない夫が科学の組織の一断片としての資格を得る時であって、科学とは、知識が社会的に普及され歴史的に伝承されるということ自身が、云わば組織化された場合を指すのである。知識の組織的な普及伝承の形式が科学なのである。この意味に於て、科学にして初めて、社会的歴史的な客観的存在[#「客観的存在」に傍点]となる*。
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* ドイツ観念論では科学というこの客観的な文化財は、精神[#「精神」に傍点]の内に数えられる。というのは、精神とは主観の心を超越して歴史的に社会的に生きる客観的形象のことだ。――客観的精神こそ精神の本領である。
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 ここでは個々の社会人が歴史の動きにつれて得たり失ったりするだろう各種の断片的で無組織な知識が、社会的なスケールに於て整頓され淘汰され、一定共通の形態の内に吸収整理される。知識を所有する諸々の意識乃至観念は、一つの形態[#「形態」に傍点]を与えられることによって初めて客観的に定着[#「定着」に傍点]される。と云うのは、知識は一種の観念形態[#「観念形態」に傍点]としてのイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]にまで客観化せられるということである。この観念形態としてのイデオロギーにまで客観化せられた知識が、所謂「科学」乃至学問なのである*。
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* イデオロギーは観念形態という意味の他に、社会意識とか政治意識とか思想傾向とかを意味するし、又単に社会に於ける観念的上部構造をも意味する。元来は社会的乃至歴史的原因によって発生した虚偽な意識の意味であった。この点に就いては新明正道『イデオロギーの系譜学』、拙稿『イデオロギー概論』〔本全集第二巻所収〕、其の他を見よ(なお後を参照)。
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 元来科学は一定単位の実在の組織的反映であった。処がこの組織的反映の内容は結局知識の組織的構成[#「構成」に傍点]のことだったが、科学に於けるこの構成組織は併し、科学そのものが一つの客観的な歴史的社会的存在であり、歴史的社会に於ける公共的伝承的な所産であったから、之は歴史的社会的条件によって制約された構成組織でなくてはならないわけだ。知識(模写)はすでに人間の実践活動(感覚・実験・其の他社会的実際活動)によって構成されたのであったが、今や科学のこの歴史的社会的条件に基く構成組織には、この人間の実践活動、特にその社会的実践活動の役割が又、著しく組織的となる。
 処で社会人の実践活動と云えば、彼が如何なる社会階級にぞくするかによって、意識上、一等根本的な区別を生じるのであるから、従って科学には所謂階級性[#「階級性」に傍点]が発生することとなるのである。科学の階級性は、場合によっては科学をして却って愈々その科学性を高めさせるが、反対の場合には科学からその科学性の重大な部分を奪って之を歪曲する作用を有っている。往々にして、反映すべき実在の原物からの印象の強さに較べて、遙かに強力な牽制力を科学構成に及ぼすものが、この階級性なのである。
 科学の階級性の議論に就いては詳しくは後に見るとして、今は科学が、その階級性によって、単に表面上の[#「表面上の」に傍点]科学的諸結論だけを左右されるのではないということを、注意しなければならぬ。階級性が単に科学の外面又は外郭だけに影響するのならば、科学者の公正にして冷静な頭脳や、真理への愛は、容易にそのような階級性などの圧力をはね退けて了う筈だろう。処が階級性が巣食っている処は、意外にも科学そのものの内部に、而も最も深部に近い処に、あるのである。と云うのは、科学の階級性は、科学構成の枢軸とも云うべき科学の方法[#「方法」に傍点]そのものの内に、すでに潜んでいるのである。
 科学のイデオロギー性は、一見単なる社会的規定[#「社会的規定」に傍点]に過ぎないように見えるだろう。なる程確かに夫は社会的規定の外へは出ない。だが科学の論理的規定[#「論理的規定」に傍点]そのものがこの社会的規定によって制約されているとしたら、もはや之は単なる[#「単なる」に傍点]社会的規定だと云っては済まされないだろう。ブルジョア経済学とマルクス主義経済学とは、単に同じ科学が階級的利害に応じて相反する結論を与えるだけなのではない。ブルジョア経済学と雖もマルクス主義経済学と一応同様に、全く「科学的」なのである。なぜならブルジョア経済学にはブルジョア経済学でそれ特有の立派な方法があって、それによって、そういう結論を必然的に導かざるを得なかったからなのだ。
 尤も、それでは自然科学にブルジョア自然科学とマルクス主義的自然科学の区別なるものがあるか、と問われるだろう。もし理想的[#「理想的」に傍点]な自然科学があるとすれば、夫は確かに唯一の自然科学でしかあり得ない。その階級対立などは科学的に、この純粋な[#「純粋な」に傍点]科学の立場から云って、無意味だろう。併しそれは社会科学に於ても少しも変ったことではない。経済学と雖も理想的に純粋なものは、ただ一つしかあってはならない筈だ。処が自然科学は決してそれ程理想的でもなければ純粋でもないのが事実であるし、この事実がどこまでもついて回るとすればこの事実も亦原理上の問題にぞくする。のみならず実は、純粋な[#「純粋な」に傍点]自然科学、と云うのは哲学的世界観などから完全に独立した意味での純粋な自然科学などというものは、決して自然科学の理想的[#「理想的」に傍点]な場合ではあり得ない。もし仮にそうしたものが自然科学の理想だとすれば、そうした理想的[#「理想的」に傍点](?)な自然科学は今度は決して純粋さをもった本当の自然科学ではあり得ない。
 自然科学は、範疇を用意しないでは実験一つも実行出来ないということを忘れてはならぬ。エーテルとか波動とかいう範疇を想定しないでは、エーテルの存在しないことを証明すべき意味を有つ実験も、物質が波動であることを証明すべき意味を有つ実験も、ナンセンスだろう。実験はいつもそれの一定の意義を想定した上で初めて実験としての価値[#「価値」に傍点]を有つ。処で夫々の実験が含むこの意義や価値を云い表わす材料が、範疇=根本概念なのだ。――で範疇をもたない自然科学は存在し得ないので、それは術語と表象を持たない物理学者が存在し得ないと同様に、当然なことだ。処がこの範疇なるものは、その大部分が哲学的世界観と直接連ったものなのである。例えば因果律とか時間空間とか法則とか等々。処がこうした観念程、現在でも哲学上の異論が百出しているものはないのだ。――で一例として自然科学に於ても、広義に於けるその方法[#「方法」に傍点]に、少くともその範疇組織の選択活用に、階級性が介入する余地は多すぎる程多いということを忘れてはならないのである*。
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* 自然科学の如何なる専門家も、その範疇を一般的に問題にすることによって哲学の問題に口を容れる時、全く素人だということは、常に忘れられてはならない点だ。科学に信用のあることと、科学者の科学解釈を信用しなければならぬということとは、殆んど全く別なことだ。――例えば今日のブルジョア諸国の物理学者達は因果律に就いて、機械論的・決定論的な範疇をしか持ち合わさない。因果的必然は、範疇として偶然と完全に機械的に対立させられる。ところでこの機械的因果律の観念を覆すような物理現象が現われると、忽ち無条件な偶然論[#「無条件な偶然論」に傍点]などを提唱することになるのである。処が実は、偶然から切り離されて理解され得る必然などは、弁証法的にはナンセンスなのだ。
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 にも拘らず、云うまでもなく科学の方法[#「科学の方法」に傍点]は、何等かの社会的歴史的主観によって(従って又おのずから多くの場合階級的に)決定し尽される[#「尽される」に傍点]ものではない。実はそれより先に、まず第一に、客観的存在=対象そのものが一定の方法を必然なものとして、科学に向って指定するのである。後に見るように、この点は忘れられてはならない点だ。が、この場合、この客観的存在が、それ自身歴史的社会的存在である場合は勿論のこと、たとい、夫が自然界であったにしても、自然は、人為化され社会化された限りの自然(技術によってマスターされた自然)と、及びその条件となっている歴史的社会一般の存在自身とに、直接連続していたから、矢張り科学は一般に、この技術的[#「技術的」に傍点]条件によって歴史的社会的に制約されることを原理的に免れない、ということになるのである。実際、社会の技術的水準[#「技術的水準」に傍点]に依存するのでなければ、如何なる自然科学も、又如何なる社会科学も、発達し得ない。――処で、この技術自身は社会階級などとは異って、何等かの主観にぞくするものではなくて、客観的な物質的な世界だが、併し大事なことは、やがてそれが階級主観に連絡していることであって、実際、技術がブルジョアジーのものであるかプロレタリアのものであるかは、一切の科学の発達進歩にとって、根本的な致命的な問題なのである*。
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