、折り返して3字下げ]
* 技術は普通、唯物論に於ては労働手段の体系と定義される。この定義は決して充分でないが、併し少なくとも之によって、技術が客観的、物質的なものであることを強調することは出来る。――之については後を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
科学に於ける例の知識構成[#「構成」に傍点]の組織はかくて、論理的[#「論理的」に傍点]には科学の方法[#「科学の方法」に傍点]として、社会的[#「社会的」に傍点]にはイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]の機構として、展開するのである。この対立する二つの契機を通って、その揚句、科学が齎すものは、科学の対象界[#「対象界」に傍点]乃至科学的世界[#「科学的世界」に傍点]である。尤も対象界と云うと、科学が模写すべき原の実在界そのものを指すことも出来るが、今は夫とは区別して、この実在界を方法とイデオロギーとの構成を通じて模写したその像[#「像」に傍点]を対象界と呼ぶ世間の習慣を、採用することとしよう。こうした像(形像)としての対象は、科学にとっての「世界」であるので、之はつまり科学的「世界像」(Weltbild)と呼ばれている処のものなのである。
世界像の観念に就いては、例えば相当にマッハ主義的な色彩を有っているカント主義者M・プランクが一応の典型的見解を示している。彼によれば、実在そのものは直接には断片的にしか認識(知覚)出来ないのだが、科学は之を組織的に構成することによって、科学的な世界像を創り出す、というのである*。ただプランクの説明では、この世界像と原の実在との根本関係が、認識論的に又科学論的に、一向ハッキリしていないということが、注目に値いする。だが夫は彼が一種のカント主義者であるからばかりではなく、他に意味のある一つの理由があるのである。と云うのは、プランクの所謂科学的世界形像は、実は決して科学全般[#「全般」に傍点]の成果としての総括的[#「総括的」に傍点]に統一的な科学的世界像のことではなくて、単に物理学なら物理学という一定領域に限定された一二の科学が齎す成果としての「世界の像」のことにすぎない。だからこの「世界」は実は実在そのものとしての世界ではなくて、それの故意に一部分的な映像であるに過ぎない。客観的な現実の世界そのものとこの所謂世界像との間には、だから之だけのギャップがあるのである。カント主義者プランクは、このギャップに特に気を配らざるを得ないので、世界そのものと世界像との、吾々にとっては最も根本的な関係を、説明する気にならないのである。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* M. Planck, Die Einheit des physikalischen Weltbildes (1909)――田辺元訳『物理学的世界像の統一』(岩波哲学叢書)。同じく Das Weltbild der neuen Physik (1930); Positivismus und reale Aussenwelt (1931) 等を見よ。又 Der Kausalbegriff in der Physik (1932).
[#ここで字下げ終わり]
だがこのことは、所謂世界像[#「世界像」に傍点]と、所謂世界観[#「世界観」に傍点]との区別を云い表わしてもいる、ということは興味のあることだ。プランクのやや反唯物論的な認識論乃至科学論によれば、諸科学の、客観的根拠のある統一組織に就いての、積極的なプランに到着することは恐らく至難だろう。彼の所謂世界像は決して、だから世界観[#「世界観」に傍点]にまで、そうした哲学的統一の立場にまで、そのままでは高揚することが出来ないだろう*。――だが、云うまでもなくこの世界観こそは最も一般的な統一的な「科学的世界像」でなくてはならぬ。世界観は世界の直観[#「直観」に傍点]である。之は単に世界観という言葉を解釈してそう云うのではない。世界実在に就いての直接的な無媒介な無構成な、模写[#「模写」に傍点]という根本的な関係をば、世界観という言葉は云い表わしている、というのである。そうすれば、科学はその方法[#「方法」に傍点]とイデオロギー[#「イデオロギー」に傍点]との構成過程を通じての総結果として、この統一的な科学的世界像に、科学的な世界観[#「世界観」に傍点]に、世界直観に、即ち世界の統一的な模写・反映に到達する、ということになる。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 世界像と世界観との相違に就いて、私は曾て述べたことがある(「自然科学に於ける世界観と方法」――『理想』四六号〔本全集第三巻所収〕)。岡邦雄氏も亦之に触れている(『新エンサイクロペディスト』の内)。なおこの区別及び一般に自然科学と世界観との関係に就いては S. Kisch, Naturwissenschaft und Weltanschauung (1931) を見よ。
[#ここで字下げ終わり]
現実の世界(之は哲学的範疇によれば物質[#「物質」に傍点]と呼ばれる)に対して、之の最も直接な第一次的反映として、世界直観が、所謂「世界観」が、照応する。だが之はまだ、科学的研究を意識的に進めた結果を集成整理して出来た世界観ではなく、そういう科学的反省以前の云わば常識的な世界直観である*。併しこの常識的[#「常識的」に傍点]に統一をもった世界意識は、云うまでもなく社会に於ける歴史的な所産物であって、本来イデオロギーとしての資格を具えている。ただそのイデオロギーがまだ極めて直覚的で無意識であるだけだ。この第一次の世界観のこのイデオロギー性は、諸々の科学的方法の発見に際して側面から有力な条件を提供する。例えばC・ダーウィン自身が自伝の内で云っているように、マルサスの人口論(之はブルジョアジーの前途に矛盾を発見した最初のブルジョア古典経済学だ)からその自然淘汰の観念を示唆された。又エルステッドの電磁気関係の研究はシェリングのロマン派的自然哲学に負う処があるらしい。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 常識はパラドックシカルな性質を持った知識である。だからこの言葉を何か判ったようなものと仮定して使うことは、甚だしい混乱を惹き起こすだろう。――後に之を分析する。
[#ここで字下げ終わり]
併し一定の歴史社会的主観に由来するイデオロギーが、科学の方法の最後の決定者であることは出来ないことは、すでに述べた。否、この第一次の常識としての世界観そのものすら、そのままでは科学の方法を終局的に決定することは出来ぬ。現実の客観的な実在世界が、実は一定の方法を科学に向って指定するのだった(ダーウィンの進化論はイデオロギーよりも寧ろ農業技術の発達に依存している)。処がこの際、夫々の科学は世界の夫々の部分をさし当りその研究対象にするのであったから、科学は、例の常識としての世界観の出来上った全体的な統一をば却って一旦破壊した上で、自分にとって必要な限りの現実界の部分に照応しているだけの世界観の部分を取り出し、之を科学的方法的に仕上げることになる。従ってこの際、イデオロギーも亦、全体を以て作用出来ずに、単に部分的にしかこの仕上げに参画出来ないわけである。こうやって仕上げられたものが、例の科学的世界像[#「像」に傍点]であった。――処で諸科学の夫々が世界観の部分々々を採って之を夫々の世界像にまで仕上げた時、原物の実在世界の統一に照応すべく、夫々の科学の間、夫々の世界像の間に、再び統一が齎らされねばならぬ。こうやって齎らされたものが、科学的[#「科学的」に傍点]――もはや常識的なではない――世界観[#「観」に傍点]なのである。
処が、この科学的世界観と雖も、依然として一個の世界観であることを失わない。夫は前の常識的世界観の、云わば直系のものでなくてはならぬ。前のは単に科学的研究という過程を自覚しない時の夫であり、科学的世界観は之に反して、単に夫が科学的研究過程を自覚している場合の夫に過ぎない。区別はただそれだけだ。だからこの科学的世界観でも、それが常識として社会的に剥脱すれば、之も亦単なる常識的世界観へと資格を代えるのである。第一次の世界観もこの第二次の世界観も、世界観(世界の直覚的反映)という同一の系列の二つのステーションに他ならない。第一次の世界観の全体的統一は、諸科学の方法とイデオロギーとによる構成過程によって、部分々々に分解され、銘々に順次に高揚され、やがて凡てが出揃って又一つの全体的統一を持った世界観となる。丁度氷河が流れるような仕方に於てだ。こうなったものが第二次の世界観なのである。――科学(学問)は一般に、こういう手続きによって、実在世界(物質)に就いての知識を構成し、よって以てこの実在界を組織的に模写するのである。哲学に於ても、社会科学に於ても、自然科学に於ても、この関係は共通で変らない*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 世界観・イデオロギー・方法・科学的世界の関係は、独り科学に限らぬ。文学[#「文学」に傍点]に於ても之と平行した関係が成立する。そこでは、世界観・イデオロギー・創作方法・作品という関係となる。吾々の理論の統一的な普遍的な観点のために、特にこの点を指摘しておく必要があるのである(前出「自然科学に於ける世界観と方法」参照)。
[#ここで字下げ終わり]
だがこの場合、この関係の枢軸となっているものは、いつも実在と、夫の模写・反映と、なのである。方法に就いてもイデオロギーに就いても、科学的世界に就いても、この根本は変らない。特に科学的世界となれば、それが原物の実在世界と一定の意味に於て果して一致しているかどうかが、必ず最初の問題となる。科学の方法には作業仮説というものもあれば、暫定的方法(heuristische Methode)というものも許されよう。その意味に於て科学方法は各種のシムボルに基くという考えさえも発生する。又イデオロギーは、実在の認識をば社会的与件に従って、歴史的伝統に沿うて、又階級的利害に左右されて、撓めるだろう(撓めずに却って矯める場合もあるが)。だが少なくとも科学的世界の内容だけは、初めから実在の模写そのものであることを要求される。真理[#「真理」に傍点]の問題が、ここでは一等露骨に、表面に現われて来る*。
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
* 模写説(実践的な唯物論の)は真理に関する一等優れたそして一等大衆性を有った理論だと私は推断する。真理[#「真理」に傍点]の種類はとに角として(例えばライプニツによる数学的真理=永久的と歴史的真理=事実真理、自然科学的真理と社会科学的真理、など)、真理に就いての一般観念として、カントの構成主義、直覚明証説(デカルトやE・フッセルル)、社会的便宜主義(プラグマチズムやマッハ的思惟経済説やボグダーノフ主義)、M・ハイデッガーのアレテ説(真理とは匿されたものを露わにする―〔ale'thes〕―こと)、ヘーゲルの観念に於ける具体的普遍性の見解、其の他其の他のものにも拘らず、そう推断出来ると思う。
[#ここで字下げ終わり]
それ故、一言を以て云えば、科学と実在との関係は、論理[#「論理」に傍点]の問題に帰着する。論理学も認識論も弁証法も、この論理の夫々のモメントを問題とするものに他ならないのだが、この論理の特に科学論[#「科学論」に傍点](夫は「科学方法論」・「科学分類論」・其の他を含む)的な形態が、科学と実在との関係に他ならない。吾々は之までに、之を実在の模写[#「模写」に傍点](知識)と知識の構成[#「構成」に傍点]とによって、説明したわけである。
科学と実在との関係の問題、即ち知識構成の問題(模写の内容に就いての問題も之に帰着するのだったから)は、だから之を三つに分けて取り扱うことが出来る。第一に「科学の方法」、第二に「科学と社会」(イデオロギーの問題)、第三に科学的世界[#「科学的世界」に傍点]の問題。第三のものでは諸科学に於ける体系と諸根本概念
前へ
次へ
全33ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸坂 潤 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング