科学論
戸坂潤
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*:注釈記号
(底本では、直前の文字の右横に、ルビのように付く)
(例)提案を採用するならば*、
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目次
科学論
序
再版序
一 科学の予備概念
二 科学と実在
三 科学の方法(その一)
四 科学の方法(その二)
五 科学と社会
六 科学的世界
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序
科学というものが一纏め[#「一纏め」に傍点]にして、一体どういうものであるかを、この書物は分析するのである。そこで、科学自身の脈絡を、なるべく生きたまま取り出して見たいと私は考えた。だがその点あまり成功したとは考えられない。もしこの小さな書物に特色というべきものがあるとすれば、それは、自然科学と社会科学の二つの科学に渡って、その同一と差別と更に又連関とに心を配ったという点だろう。
体裁にややテキスト風の処もあるが、併しあくまで、科学そのものに就いての評論[#「評論」に傍点]という観点を守ろうと心がけた。この錯雑紛糾を極めた生活と思想との世界に於て、私は「科学」の性能に、限りない期待を有つからである。
今から丁度七年前、私は『科学方法論』(岩波書店)を書いた。今度の出版は、この旧著が立っていた立脚点を相当の程度に改変すると共に、出来るだけその規模を拡大したものに他ならない。だが旧著の内に展開されたシステムと見解の或るものには、依然として利用すべきものがあったと思う。この『科学方法論』が併せ読まれるならば、著者の幸いである。――なお今度の書物の思想内容は、すでに之まで出版した私の諸著述や論文の中に、分散して見出されるものが大部分なので、読者が次の拙著も参考にして呉れるならば、本望である。――『イデオロギーの論理学』(鉄塔書院)、『イデオロギー概論』(理想社出版部)、『現代哲学講話』(白揚社)、『技術の哲学』(時潮社)、『日本イデオロギー論』(白揚社)。
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結局に於て時間が不足であったため、論証を省いた処や杜撰な個処が少くない。他日訂正したいと考える。――なお参考書や文献は、機会々々に触れたと思うので、巻末には別に文献目録をつけなかった。そのため載せるべくして機会を得なかったものも多い。
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一九三五・一〇
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[#地から9字上げ]東京
[#地から2字上げ]戸坂潤
再版序
第二回の予約配本になるのを機会に、少なからぬ誤植を訂正して、再版の体裁にすることにした。出来る限りの訂正をした心算であるが、まだ遺漏があるかも知れないので、今後も読者の助力を乞う次第である。
私のこの『科学論』に就いて、読者から批評や意見や質問を受け取ったのが数件に及んでいるが、どうも暇がなくて一々回答が出来ずにいるのは心苦しいことだ。書店の希望もあるので、この全書〔『唯物論全書』〕の「月報」でも利用して、順次に答えて行きたいと考えている。
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一九三六・二
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[#地から2字上げ]著者
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一 科学の予備概念
広い意味に於て科学というのは、単に分科の学[#「分科の学」に傍点]又は特科の学[#「特科の学」に傍点]としての所謂「科学」(=特殊科学)だけを指すのではなくて、一般に学問[#「学問」に傍点]のことを指すのである。処が学問という観念乃至言葉も亦決して元来、今日普通考えられているように限定されていたものではなかった。それは歴史の教える処である。例えばフランシス・ベーコンの有名な学問の分類法によれば、詩(乃至詩学)も亦学問の一つの分枝に数えられている。今日の言葉で言えば、文学乃至文芸も亦一つの学問だというのである。
併し今日所謂文学なるものが正常な意味に於ける学問だと考えられてはいない通り、「詩」も亦元来決して今日の意味での学問ではなかった。尤も文学という言葉を特に文芸(文学的芸術)から区別して、文献学・古典学・文学的言語学という意味に用いようという提案を採用するならば*、その意味での文学は立派に一つの学問であるのだが、併しそれにも拘らずなお文芸に、この文学という如何にも一つの学問であるかのような紛わしい呼び方が与えられていることは、単に日本や支那の文化的教養の特殊性によるばかりでなく(東洋にはギリシア的――近代的な自然科学と社会科学とが発達せず、その代りに文字による学・文献学が独占的な支配を有っていた)、一般にヨーロッパに於ても古く学問という概念が、広義に於ける芸術[#「芸術」に傍点]乃至技術[#「技術」に傍点](Ars―Art―Kunst)とどれ程未分な又は混淆した状態にあったかを示している。
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* 文献学 Philologie は主に文筆の所産に関する歴史的研究とその研究方法とを意味する。広義の文筆労作(Literatur)が文献学の対象となる。――観念論哲学とこの文献学(乃至解釈学)との関係は今日特に注目に値いする。
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学問は最も広義な又は古典的な意味における芸術乃至技術の寧ろ一部分に他ならなかった。でこの点まで学問の歴史を溯って行けば、学問はもはや芸術からさえも原則的には区別出来ないものだったと云わざるを得なくなる。芸術は天才の乃至何等かの人間の造ったものだという側面に於て、一種の生産的能動(Poiesis―Poesie)にぞくし、その限りに於て技術にぞくすると考えられた(但しここでいう生産的能動も技術も、まだ、生活物質の物質的生産に於ける真の意味[#「真の意味」に傍点]の生産技術ではないが)。学問も亦同じく、古来の一つの通念によれば、天才乃至何等かの人間の創造なのである。現に今日でも、学問は観念や事物の探究・発明・発見によって成り立つという側面が強調される*。だから、古典的な意味に於ける夫々の学問は、実は夫々「自由芸術」だったというわけである。
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* 科学に於ける探究・発明・発見をテーマとした研究として、J. Picard, Essai sur la Logique de l'invention dans les Sciences と Essai sur les Conditions positives de l'invention dans les Sciences とを挙げることが出来る。
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それだけではない。支那哲学や印度六派哲学やギリシア=ローマ期の哲学、又中世のカトリック神学、に於て見られる学問なるものは、それ自身が道徳的知恵か宗教的信条かに他ならなかった。道を説き教えを垂れることは、知識や認識の問題ではなく、律法の博士達や「学者」のものでもない。教えや道としての学問は権威[#「権威」に傍点]がなくてはならぬと考えられた。哲学(中世では一切の学問が哲学と呼ばれる――光学さえが)は神学の婢女だというスローガンは有名であるが、云うまでもなく之は、学問が宗教の一部分となるのでなければ社会的存在を許されない、ということだった。「権威」のないものは学問ではあり得ないというのだ。ヨーロッパ中世末期の哲学が、神学のこのカトリック的権威から独立しそうにし始めたので、そこで教会はこのスローガンを選ばなければならなかったのである。
だが今日の学問は云うまでもなく、芸術一般からも道徳的教説や宗教的信条からも区別されている。そしてその故にこそ却って一つの独立な権威[#「独立な権威」に傍点]を有つものだ、ということになっている。この学問的権威の独立性は、強権によるものでもなければ決議によるものでもなく、又修辞的説得力に基くのでもない。社会秩序に順応したり君臨したりするのでもなく、又多数決や話術やによるのでもないということが、近世以来の現代的学問の、独立性と権威だと信じられている。無論、単に天才や何等かの人間の創造するものだということから、学問のこの学問らしい権威ある独立が結果する理由もあり得ない。――では近代的科学のこの「独立」はどこから来るのか。つまり、この近代科学の科学性[#「科学性」に傍点]はどこに存するのか。
近代的学問の特色は、近世の自然科学がその内に於て占める極めて重大な位置によって、明らかにされている。云うまでもなく現代の諸科学は、何も自然科学自身や又は多少とも自然科学的な特徴を有った学問に限るのではない。まして、ブルジョア社会の文化相に適切に順応するように出来ているという意味でブルジョア的である処の、歴史学や社会諸科学になれば、自然科学的であるどころではなく却って一定の意味に於て反自然科学的でさえあるものが甚だ多い*。だが、こういう反自然科学的傾向を有った諸科学でも、今日では夫が特に自然科学に対立しているという特色を強調しなければならぬ程に、自然科学は近代的学問一般にとっての公然たる標尺となっているのである。だから歴史学や社会科学の内でも、みずから進んで出来る限り自然科学の特色を模倣し、之に接近しようと企てるものが少くない(H・T・バックルの歴史学、A・コントの社会学、ケトレの社会科学、オーストリア経済学派乃至数理経済学、H・T・テーヌの文芸史学、など)。反自然科学的な態度を標榜するブルジョア歴史学やブルジョア社会科学は、恰もこういうものを目標にし、之を打倒しようとすればこそ、その存在理由を有つのであった。
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* ブルジョア科学[#「ブルジョア科学」に傍点]という概念は多くのブルジョア学者自身が承認しない処のものである。例えばM・シェーラーの如き。だがこの概念の説明は一応 E. Untermann, Sciences and Revolution に委せてよい。マルクス・エンゲルスの著作の多くを通じてこの概念の意義の重大さは明らかである。
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自然科学が今日の科学全体に対して有つ代表権を、容認するにしても容認しないにしても、又はある制限と代用物とを条件としてしか容認しないにしても、とに角近代的学問に於ける自然科学の公然たる君臨は、一般的に承認された文化史上の根本想定だと見ていい。
さてこの自然科学の特徴に就いては、ありと凡ゆる説明が与えられている。例えば研究方法が精密であるとか数学が充分に応用され得るとか、又は法則を発見して事象の一般化を行い得るとか、というのが現在の「科学論」の代表的な諸見解である。特に科学論に就いて功績の少くない新カント学派の例を取れば、H・コーエンや、P・ナトルプや、E・カッシーラーが前者であり、W・ヴィンデルバントや、H・リッケルト等が後者であることは、広く知られている*。
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* H. Cohen, Logik der reinen Erkenntnis[#「Erkenntnis」は底本では「Erkentnis」]; P. Natorp, Die Grundlagen der exakten Wissenschaften; E. Cassirer, Substanzbegriff und Funktionsbegriff. ―― W. Windelband, 〔Pra:ludien〕; H. Rickert, Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung 其の他参照。――なお之に因んで次の文献を挙げておく必要がある。
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