フ検討とを中心とするだろう。
 順次に夫を見て行く。
[#改段]

  三 科学の方法(その一)


 科学の方法という問題は、近代科学論(主としてブルジョア的科学理論)の最も代表的なテーマになっている。科学方法論[#「科学方法論」に傍点]は科学論[#「科学論」に傍点]そのものの中心的な課題とされている。尤も科学論と云っても、一般的に言葉通りに、科学乃至学問に関する統一的研究と見透しであるに止まらず、実際には、単に知識[#「知識」に傍点]一般の根本理論であることもあるし(フィヒテの「知識学」)、又従って一種の論理学[#「論理学」に傍点]原論である場合もある(ボルツァーノの「知識論」乃至『科学論』)。之に反して又、特に自然や社会・歴史・文化に関する単に経験的[#「経験的」に傍点]な諸科学に於ける二三の根本問題に就いての哲学的見解を意味する場合もあるのである(リッケルトの「科学論」)。処で実はただ、この第三の場合又はそれに相当するような科学論だけが、その中心を科学方法論[#「科学方法論」に傍点]に置いているのである。
 だが科学論という言葉がそうであったように、所謂科学方法論なるものも亦、必ずしも言葉通りに、一般に科学の方法に就いての理論であるには止まらない。夫は近代ブルジョア哲学上、すでに一定の歴史的な約束を持った言葉になっている。吾々は何もこの約束を守らねばならぬ義務はないのであって、却ってこの約束を破ることによってこそ初めて本当[#「本当」に傍点]の科学方法論に到着し得る筈であり、その点、科学論(というこの書物の表題)自身に就いてと全く同じであるが、併し少くともこの約束を知らずには、科学の方法に就いて語ること(それが科学方法論だ)は不可能になっている。そういうような条件の下に、すでに吾々は置かれているのである。
 所謂科学方法論がどういう歴史的約束に束縛されたものかは次に見るとして、ここで予め注意しておかなくてはならぬのは、科学の方法を論議するらしく見えるものに、この所謂科学方法論(Methodenlehre―Methodik)を他にして、なお方法論[#「方法論」に傍点](Methodologie)という言葉があることである。Methodenlehre でも Methodologie でも、言葉としての意味だけから云えば殆んど何等の区別はないわけであるが、併し実際には、二つは必ずしも同じ内容を云い表わす言葉ではない。大体の傾向乃至習慣に就いて云う限り、ブルジョア哲学の伝統では、科学方法論[#「科学方法論」に傍点]の方は主として経験的諸科学(数学も之に加えてよいが)に特有な学術研究方法に就いての理論を指すが、之に反して、方法論[#「方法論」に傍点]の方は、より一般的に又はより抽象的に、認識一般の方法を論じる場合を指すことが多い。前者が云わば認識論[#「認識論」に傍点](ブルジョア哲学に於ては之は諸科学の科学的認識の根柢に関する理論として理解される場合が多いが)にぞくし、之に反して、後者は単に論理学[#「論理学」に傍点](形式的な所謂学校論理学の延長拡大としての)にぞくする、と云っていい。
 尤もこの二つの言葉そのものだけに就いて云えば、どれが所謂認識論側のもので、どれがもっと抽象的一般的な所謂論理学の側のものかは、そう簡単には仕分け出来ない事情にあるので、実際言葉としては二つの間に何も根本的な区別はなかったのだ。ただ必要なのは、所謂方法論(メトドロギー)の方(但しそれを却ってメトーデンレーレと名づけたっていいのだ)が、従来の所謂形式論理学の一分科としての歴史的なニュアンスを持ってるのに反して、所謂科学方法論(メトーデンレーレ)の方(但しそれを却ってメトドロギーと名づけてもいいのだ)は、少なくとも従来の形式論理学を何等かの形で踏み越えようとする立場(「先験的」論理学・「内容的」論理学・「具体的」論理学・「近代」論理学・「認識論」・等々)に立つという、歴史的には新しい又進歩した段階のものだ、という区別である。
 例えばフランシス・ベーコンの所謂研究法(その帰納法)は、近世の自然科学の方法を論じようとしたものであるにも拘らず、結局従来の所謂論理学の単なる一部分にしか過ぎなくなっている(帰納論理学)。後に之とスコラ哲学以来の所謂演繹論理学とを結合して、特に社会科学(Moral Science 乃至 Social Science と呼ばれた)の方法を精細に論じたJ・S・ミルの労作も、必ずしもまだ「科学方法論」になり切ったものではなく、つまりは形式論理学に於ける「方法論」の大成に過ぎないという様な位置を与えられている*。なぜなら之は本質上、ベーコン的方法論をそのまま社会科学に持ち込んで単に之を比較的精細に考察したものに他ならないからである。蓋し近代自然科学(社会科学もそうだが)が最も著しい発達を遂げたのは十九世紀の後半以後であって、この科学的発達に相応した方法論、即ち所謂科学方法論に該当するものは、まだ出現する機会を持たなかったからである。
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* J. S. Mill, A System of Logic, ratiocinative and inductive (1843)。之には「明証の原理と科学的研究の諸方法[#「科学的研究の諸方法」に傍点](methods of scientific investigation)」とを結びつけた見解を示すものだ、とサブタイトルに書かれてある(社会科学に関する部分は、伊藤訳『社会科学の方法論』がある)。
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 自然科学の著しい発達によって、まず第一に促がされたのは、専門科学者自身による科学的研究法乃至科学一般に関する省察である。物理学乃至数学の領域からはH・ポアンカレ、物理学乃至生理学の領域からは、E・マッハ、V・ヘルムホルツ、デュ・ボア・レモン、心理学の領域からはW・ヴント、生物学の領域からはH・ドリーシュ、などを挙げることが出来るが、これ等の科学者達は、科学研究法乃至科学一般に対する省察から、夫々一般的な認識論や哲学を導き出した。従って彼等は夫々の科学論乃至科学方法論を持っていたのである。――だがそれにも拘らず、彼等の多くは(少くともヴントは例外だが)、例えば諸科学に就いて比較研究[#「比較研究」に傍点]をすることなどに就いては、それ程熱心ではなかったのである*。なる程夫々の専門の科学領域に横たわる根本問題に関して、極めて立ち入った又卓越した分析批判が与えられている、夫は人の知る通りだ。だがそういうことと、夫々の科学をそのものとして一纏めにし[#「一纏めにし」に傍点]、之を諸科学全般との関係に於て考察することとは別で、後者は、必ずしもこのその領域のエキスパートとしての彼等が尊重した問題ではなかったように見える。だからここからは、所謂「科学方法論」とか又夫を中心課題とした所謂「科学論」とかは、充分の展望を以て現われる必然性を必ずしも見出し得なかったことは、無理ではなかった。
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* W・ヴントは近代に於ける実証的エンサイクロペディストの一人に数えられ得る人である。その『論理学』に於ける諸科学の比較研究――科学の分類[#「科学の分類」に傍点]――は一応尊重に値いする。
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 この意味に於て注目すべきはK・ピアソンの『科学の文法』(K. Pearson, The Grammar of Science, Part I. II., 1911)である。マッハの認識理論の系統を引く彼は、ヴントなどとは異って、イギリス風に消化された思想と表現とによって、この科学概論[#「科学概論」に傍点]を書いた。彼は統計学者で又物理学者である。
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 で、科学論乃至科学方法論は、単に十九世紀後半以来の自然科学の急速な発達に俟つだけでは充分ではなかったので、更に諸自然科学の比較研究[#「比較研究」に傍点]、特に歴史科学乃至社会科学と自然科学との比較研究、の関心に俟たねばならなかった。そしてすでに述べた通り、之は、自然科学の科学的イデー・科学性と哲学の夫との比較研究、或いは寧ろ、実証的な自然科学の席巻からして如何に哲学という教授職の糧を護るかという関心とさえ、関係があったのである。嘗てヘーゲル哲学体系の崩壊直後、哲学は到底理論体系としては成り立ち得ないと考えられたように、一頃、歴史学は果して科学であるかどうかということが、真面目に疑問にされたこともあったのである*。こうした、諸科学一般の比較研究、そして科学の分類[#「科学の分類」に傍点]なるものが、改めて近代的な興味の中心を占めるようになって来た。之によって諸科学は、そのものとして一纏めに、哲学者や哲学者上りの理論家にとって、独自の[#「独自の」に傍点]、往々にして諸科学の実際的な実証的研究から孤立さえし兼ねない、流行の一テーマとなって来た。近代的な所謂「科学論」乃至「科学方法論」(リッケルト・コーエン・ナトルプ・ディルタイ・其の他)はここに成立したのである。
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* ヘーゲル学派の右翼が神学的形而上学へ赴き、左翼が神学批判と唯物論とへ赴いたに対して、中央派は哲学史[#「哲学史」に傍点]の構成に向った。蓋しK・フィッシャーやツェラーやE・エルトマン等によれば、哲学は体系としては破産したのであって、ただ歴史[#「歴史」に傍点]としてのみ成り立つことが出来る。哲学体系をこの破産から救済しようというささやかな努力は、H・ロッツェの『形而上学』(実はヘルバルトに由来する)であった。哲学は形而上学として復興されるというのである。恰も今日の新ヘーゲリヤンのように。フォイエルバハの唯物論は云うまでもなく、之に反して、哲学を唯物論として「救済」したのであるが。
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 現代のように諸自然科学・社会・歴史・文化・精神・諸科学が、夫々のコースに沿うて、一応独立に而も相互の紛糾した錯綜に於て、発達し又発達のテンポを速めつつある状勢にあっては、科学なるものを一般的に、そのものとして一纏めに、テーマとすることは、極めて困難だと云わねばならぬ。だがそれだけに又恰もその企てが要求されざるを得ないということも真理だ。そこでこの錯綜を整理整頓する仕方の何より手近かなのは、云うまでもなく之を分類[#「分類」に傍点]することだ(Divide et impera――分割してから支配せよ)。――処が分類には分類の原理[#「原理」に傍点]がなくてはならぬが、恰も科学の方法[#「方法」に傍点]こそがこの科学分類の原理とならなければならぬというのが、今日の所謂「科学論」の立場に立つ人々の与える処の結論なのである。こうして今日の所謂「科学論」は所謂「科学方法論」をその中心課題とすることになった。

 併し広範な意味に於て科学論と呼ばれるべきものも、又科学方法論と呼ばれるべきものも、そうだったように、科学の分類という興味は、云うまでもなく古来から存する。之は何も近代になって初めて特別に重大性を認められたテーマではない。私はすでに拙著『科学方法論』(岩波書店――続哲学叢書の内〔本巻所収〕)に於て、科学分類の仕方そのものの分類を与えたから、今ここに夫を繰り返すことは避ける*。ここではただ、次のことだけを付加して注意を促しておきたい。と云うのは、科学分類というこの問題は、恐らく往々そう想像されるような、ペダンティックで教科書風に退屈な、或いは概論的に皮相な、興味からばかりテーマにされて来たものではない、ということである。科学の分類の必要を切実に感じ取った時代には、殆んど必ず、そこに何か新しい科学乃至学問のイデーが潜んでいる。或いは同じことだが社会に於ける科学の地位と役割とが新しく問題にされているのである。
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* 私の書物では、この部分は主に R. Flint, Phi
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