撃盾唐盾垂y as Scientia Scientiarum, and a History of the classification of the Sciences (1904) によった。フリントのこの書物は恐らく科学分類史として最上のものだろう。なお科学分類の書物として著名なものは H. Spencer, The Classification of the Sciences (1864) であり、もう少し新しいものでは Th. G. Masaryk, Versuch einer Concreten Logik―Classification und Organisation der Wissenschaften や、ヴントの Logik を挙げることが出来る――なお田辺元『科学概論』、J. A. Thomson, Introduction to Science, ゴルンシュタイン『弁証法的自然科学概論』などは、必ずしも科学分類に止まらず、一般に有用だろう。――特に社会科学に関するものとしてはミルの『論理学の体系』(前掲)やC・メンガー『社会諸科学の方法』(前出)の付録など参照。
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普通科学乃至学問の分類はプラトンにまで溯る。彼の科学分類に就いては色々の異説があるのだが、少なくとも、例えば彼が、数学と哲学(ディアレクティケ)とを区別して、而も両者を常識=ドクサ(その内には自然や社会に関する感性的な知識が含まれる)から峻別したという限りのことは、一般に承認される点である。つまり感性による知識と超感性的なイデアに就いての知識との区別なのである。だがいつでも、科学の分類の興味は、実は分類[#「分類」に傍点]そのものにあるのではない。そうした分類を必要とするような新しい学問意識がこの分類の本質的な動機なのである。プラトンではディアレクティケ(弁証法)なる哲学が、この新しい科学意識だった。吾々は尤も、プラトンに就いて語るのに、単に一人のプラトンだけを口にすることは出来ない、同時に少なくともソクラテスと、アリストテレスとの名を挙げなければならぬ。というのはつまり、当時のギリシア(主としてアテナイ)の道徳的文化に就いて語らねばならぬということだ。アテナイは当時経済的困難と政治的動揺とのさ中にあった。この動揺に観念的に反発しようとして現われたものが、プラトン一派の貴族的・道徳的・観念論的なイデアの認識理論だったのである。このイデアの学問という理念こそ、プラトンの学問分類の本質的な動機と意義とをなすものだった(プラトンは、哲人教育を施そうとするシラクサの政治学校で、まず数学――イデアの学の入口――を課そうとしたと云われる)。科学分類への興味の高揚は、社会の歴史的画期と、夫に基く科学意識の動揺・沸騰に相応しているのである。
プラトン(又アリストテレス)が哲学的[#「哲学的」に傍点]科学意識の高揚に従って、科学の分類を必要としたとすれば(尤も彼は、別に特にこういうテーマに就いて議論しているのではないが)、自然科学的[#「自然科学的」に傍点]な科学意識の高揚に応じて科学分類を企てたものは、ベルラムのベーコンであった。その『研究の発達』(Advancement of Learning)に於て彼は、まず人間的研究と神に関する研究とを区別し、その各々が人間の記憶と想像と理性という心理的能力に相応して分類されると主張する。かくて人間的研究は、歴史と詩と哲学とに分けられるのである。だが科学(乃至広く学問)をこのように人間の精神能力に従って分類するということは、ベーコンでは実は、特に人間の認識に於ける理性[#「理性」に傍点]の役割を尊重することを意味している。之は近世初期のイギリス・ブルジョアジーの、スコラ哲学的科学意識に対立する実証的な自然科学的精神を、物語っていたのである*。
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* ベーコンのこの有名な分類は、それが近世自然科学の意識的高揚に相応していたればこそ、十八世紀から十九世紀に至るまで、殆んどそのまま保存された。フランスのアンシクロペディスト達も亦之を、その『百科辞典』(1751)そのものの基本として採用した。ディドロは云っている、「吾々は、云わばまだ学芸というものの存しなかった時代に、学芸の広範な百科辞典のプランを描いた大法官ベーコンに、主として負う処がなくてはならぬ。」――アランベールはこの分類に手を加え、例えばベーコンが無視した数学の位置などを明らかにして、之を保存する役割を引きうけた。
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社会科学[#「社会科学」に傍点]乃至歴史科学[#「歴史科学」に傍点]の意識の高揚と共に持ち出されたものは、サン・シモン乃至オーギュスト・コントの科学分類である。ここでは、プラトンやベーコンの主なる分類原理であった人間の主観的能力の代りに、事物それ自身の秩序による分類原理が持ち出される。事物そのものは、より簡単なものからより複雑なものへと向って、一つの体系をなしている。そこで之に関する科学も亦そうした秩序に相応しなければならない。数学、無機物の科学(力学・星学・物理学・化学)、生物学、社会学、の順序が之だというのである。処で之は云うまでもなく、フランス・ブルジョアジーのイデオローグの一人としてのコントがその社会学(ガリレイ的な方法に基く処の――実証的な――)を、新しく提唱するために必要な分類に他ならなかった*。尤もコントはその直接の先輩であるサン・シモンの社会科学のイデーを平俗化したものにすぎぬとも考えられる。サン・シモンの社会科学の真理は寧ろK・マルクスによって生かされたと見るべきだろう。だから、丁度ベーコンが自然科学の根本精神に立脚しながら、その自然科学の観念自身が充分に科学的でなかったように、コントの社会学の観念も亦、決して科学的な社会科学だとは云うことが出来ぬ(ブルジョア「社会学」と「社会科学」との区別は今日でも依然として重大な問題を投げかけている)。――だがそれにも拘らず、コントの科学分類が、事物そのものの秩序に相応し、従って又やがて事物の歴史的[#「歴史的」に傍点]発展の各段階に相応し得る処のものだった、ということは、忘れてはならない特徴をなす。
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* コントはフランス・ブルジョアジーの最も雄弁な代表者の一人であるが、併しブルジョアジーの進歩の向上線に沿って切線の上に乗っている人物ではない。彼は、すでにブルジョアジーと戦わねばならなくなっていた新興勢力の一つであるサンキュロット一派に対して、明らかに保守的・反動的な立場に立っていた。だがそういう意味に於てこそ、彼は正しく現代的なブルジョアジーの代表的なイデオローグの先駆者だろう。ブルジョア「社会学」が端をコントに発し、今日でもなおコントの名がそこに権威を持っている所以である。
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近代に於て最も組織的な諸科学の分類を与えたものは、実はヘーゲルの『哲学的諸科学のエンサイクロペディア』であった。丁度プラトンに於てそうであったように、ここではドイツの社会的現実の貧弱さが、哲学的な偉大さとなって現われる。このエンサイクロペディアはまず論理学から出発して諸自然科学を遍歴し、やがて精神諸科学(心理学と社会科学と文化科学)を経て、哲学と世界史とに終るのである。――ヘーゲル自身は必ずしも新鮮な圧力ある科学意識に動かされているのではない。彼のエンサイクロペディアは従来の人間認識のレジュメ以上のものでもなければ夫以下のものでもない。だがこの科学分類(この哲学的エンサイクロペディア)はやがて、マルクスの科学的な社会科学[#「科学的な社会科学」に傍点]=科学的コンミュニズムなる圧倒的な理論的意識と結びつく。そこにヘーゲルの諸科学百科辞典的な体系の、歴史上の積極的な意義があったのである。ヘーゲル哲学体系を使用して、社会科学と自然科学との、又夫々の諸科学の間の、分類体統を与える道を開いたものは、F・エンゲルスであった。だがこれに就いては、後に見よう。
で今迄見て来た通り、有名で又有力な科学分類の裏には必らず、云わば社会的に摩擦されて光を放っている処の、新鮮で強力な、新しい科学の意識があるのである。――処で、今日のブルジョア哲学に於ける所謂「科学方法論」の代表的なものも亦(それは何と云ってもリッケルト教授の名に結びついているのだが)、一つの科学分類から出発しているのである。尤もリッケルト教授達の思想や業績の持つ一般的な重要さは、強ち高く評価されるべきものではないだろう。世間には遙かに意味の大きな科学的哲学的動きが、沢山ある。だが「科学論」というテーマから云うと、リッケルト等の仕事の意義は充分注目されていいというのである。彼の科学分類と、それから結果する科学方法論とは、歴史科学乃至社会科学や自然科学が、今日のブルジョア観念論哲学の観点から照らされる時、もはや到底収拾すべからざる雑踏と混乱との中に見出される他はない、ということを告げるだろう。実は恰もここに、所謂「科学方法論」なるものの、画期的な歴史的意味があるのである*。
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* リッケルトの科学方法論に関する解説と、やや不充分ではあったが一応の批判とは、拙著『科学方法論』〔前出〕で与えた。私は今、多少の反覆は止むを得ないがなるべく重複を避けたいと考える。
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H・リッケルトによれば(之はW・ヴィンデルバントの始めた考察に由来するのだが)、普通、科学(今は数学や哲学は論外とする)はその研究の対象が何であるかによって、分類されている。コントの分類でもすでにそうだったし、又何等かの主観的な原理を用いて分類しようとする場合にも、いつか知らず知らずに、対象そのものによる分類法を、混入したりつけ加えたりしているのが常だ。処がこの分類方法は現在一つの根本的な困難に行き当った、とリッケルトは考える*。と云うのは、普通の常識によると、実在は自然界と精神界とに分れるのであるが、この自然を対象とする所謂自然科学と、この精神界を研究すると称する所謂精神科学(例えば実験心理学)とは、単にその対象を異にするというだけで、科学としての性質から云ってどこも根本的に変った処はない。でそうすると一切の科学が同じような根本性質を持っているのかというと、決してそうではないので、例えば歴史学は自然科学などとは非常に違った科学的性質を有っている。だからこそ現に、歴史学は「科学」であるかないか、ということさえが問題になるのだ。それではこの自然なるものと歴史なるものとが、対象として全く別なものかというと、之又決してそうではないので、歴史も実はその材料から云うと自然以外の何ものでもない、と彼は考える。そうすればこの二つの科学の根本的な区別は、研究の対象[#「対象」に傍点]如何による区別ではない、という結果になる。
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* 代表的なものとしてW・ヴントの分類法を挙げることが出来る。彼は実在の区別に従って、自然の科学(自然科学)と精神科学(心理学)とを、大別する。
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対象としては自然と精神との区別がある。処が科学そのものはこの対象の区別とは無関係に、自然科学と歴史的科学とに区別されている。それに、精神は心理学によって「自然科学的」に研究されている、かと思うと同じ自然も場合によって専ら「歴史学的」に研究される。それ故、とリッケルトは結論する、科学はその対象[#「対象」に傍点]によって分類されるべきものではなくて、却ってその研究方法[#「方法」に傍点]によって分類されねばならない。同じ対象であっても、研究態度としての科学の方法が異るに従って、異った科学の対象となることが出来る。科学が、その研究する対象たる実在か何かの相違によって区別されるという考えは、だから単なる無批判な素朴な常識に過ぎないのであって、批判的[#「批
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