サ的」に傍点]な哲学(と云うのは先験的観念論)は、こうした独断をまず第一に切り捨てなければならぬ。科学は客観的な実在自身(それはそのものとしては不可知な筈だ)に基いて考察されるべきではなくて、却って、カントと共に、主観の観念性[#「観念性」に傍点]に基く何等かの原理に沿うて、考察されなければならぬ。之が真に哲学的な(というのは批判的な)「科学論」の根本だ、ということになる。
かくて科学の分類というテーマは、リッケルトによって、完全に、科学の方法というテーマに変る。では科学のこの方法[#「方法」に傍点]と、所謂対象[#「対象」に傍点]との関係はどうか。
普通、科学の対象は実在だと考えられているので、対象と云えば実在(Wirklichkeit)のことだと思われ易いが、併し批判主義哲学にとっては、一般に認識の対象(Gegenstand)は、認識にとって[#「とって」に傍点]の対立物という意味に於て、初めて対象なのであって、認識が主観による何等かの工作であった以上、それに基くことによって初めて夫に対立出来た筈の対立物であるこの対象なるものは、之又主観による何等かの工作の結果である他はない。で科学の対象とは、科学そのものがみずから自分自身に与えた処の対立物のことであって、その意味で実は科学の所産[#「所産」に傍点]以外の何物でもない。――実際は恐らくレヤールな客観的な存在であるかも知れない、だが科学の対象は、観念性にぞくし主観にぞくする認識の単なる普遍通用性の担い手か何かであるに過ぎない。
だがこの実在という観念も、実は学問的な哲学的な観念であるよりも寧ろ常識的な観念なのである。吾々は之を秩序のある学的認識や何かの揚句に知るのではなくて、実在は吾々によって直観に於て直覚されるに過ぎない。尤も、少なくとも実在は吾々という認識の主観の目の前に与え[#「与え」に傍点]られていなければならない。そこではそして、すでに「所与性の範疇」という論理的[#「論理的」に傍点]想定が、哲学の立場から見れば紛れもなく横たわっている。だがそれにも拘らず、この実在の与えられ方自身は、全く単に直観的[#「直観的」に傍点]にしか過ぎず、科学的認識以前のものである、という。
処で直観なるものの内容は、いつも認識の材料・素材となる処のものである。この素材は、カントも云っているように多様[#「多様」に傍点]であり、リッケルトによると異質的[#「異質的」に傍点]で区画のない連続[#「連続」に傍点]である。そこで例えば認識のために与えられたこの材料からその異質性と連続性とを取り去って、等質的な断続的なものを拵え上げて見ると、それは一二三……というような数の世界(一種の数学の対象)となるだろう。今は併しそれはどうでもいいので、必要なのは、そういう風にしてこの海のものとも山のものともつかぬ与えられた認識材料を、適当に[#「適当に」に傍点](どういうことに対して適当にであるかは別にする)加工[#「加工」に傍点]して、この内容に一定の形式・形態を与えた上でなければ、夫が一定の認識の対象にはならない、という点である。この形式・形態の与え方、即ち素材加工の手続きが、やがて科学の方法[#「方法」に傍点]というものだというのである。かくて一定の方法が一定の対象を産むのであった。
この方法には併しながら、今の場合ただ二つの場合しかあり得ない。例の素材に固有な異質性と連続性との内、前者を捨て去るのが「自然科学」的[#「的」に傍点]方法であり、之に反して後者を捨て去るのが「文化科学」的[#「的」に傍点]方法であるという(両者とも捨て去れば全く形式的な科学である数学しか残らない)。即ち自然科学的方法による科学の対象は、等質的で連続的な形式を持っており、之に反して文化科学的方法による科学の対象は、異質的な不連続的な形式を有つという結果になる。そこでリッケルトは、便宜上、逆に[#「逆に」に傍点]、前者のような方法を採用する気になった方の諸科学を一般に[#「一般に」に傍点]「自然科学」、之に反して、後者のような方法を採用したいと思う方の諸科学を一般に[#「一般に」に傍点]「文化科学」、と定義する。本来の自然科学や実験心理学は、前者にぞくする代表的な科学で、歴史学は後者にぞくする代表的な科学だということになる(例えばよく使われる精神科学[#「精神科学」に傍点]という言葉は、だから不用であり又は妨害となる。それに代るものが文化科学の観念なのである)。
無論どちらの定義にもあて嵌らない中間領域にある科学は、沢山ある。だがそれは別にこの考え方の不当を証明するものではない。それよりもこの考え方の効用は、普通その性質がハッキリ甄《けん》別出来にくいような諸科学を、この方法のクリテリウムにかけてハッキリさせることが出来るという点だ。例えば社会学乃至社会科学は、従来精神科学であるのか自然科学であるのか判然としなかったが、その方法が自然科学的である限り(即ち対象を一様に等質的に且つ個々の場合に就いてではないという意味に於て連続的に、取り扱う限り)、正に「自然科学」にぞくする。歴史科学は文化科学だ、然るに社会科学は之とは全く相反する自然科学である! というような結論を産むのが、この科学方法論の特色のある効用なのである。
自然科学は自分の対象を等質的で連続的なものとして見出す。ということは、この対象が反覆[#「反覆」に傍点]し得るそして個体としての個性を持たない[#「個性を持たない」に傍点]ものだということである。反覆しつつ個性を没するものを、論理学的に云い表わせば一般性[#「一般性」に傍点](共通[#「共通」に傍点]普遍性)である。之を自然科学の具体的方法に於て探して見ると、普遍的法則[#「普遍的法則」に傍点](個別的法則というものがあるとすれば夫から区別された普遍的法則)の発見と適用ということに他ならない。自然科学はだから法則発見的[#「法則発見的」に傍点]科学である。――文化科学は之に反して、その対象を異質的で不連続なものとして発見する。ということは、この対象が個体として個性を持っているということだ。ここでは普遍的法則の反覆は許されない。歴史に於ては旧いもののただの反覆はない。歴史上の事件は、他の事件と一続きに等質である故を以て認識目的に適うのではなくて、他の事件とは異った特異性を持てばこそ、認識目的に適したものとして選択[#「選択」に傍点]される。で、文化科学は個性記述的[#「個性記述的」に傍点]な科学である、ということになる*。
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* この点は全くヴィンデルバントに由来する(W. Windelband, 〔Pra:ludien〕 の内を見よ)。
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自然科学の対象は、普遍的だということに於てしかその価値を持たない。処が文化的な価値[#「文化的な価値」に傍点](文化価値)は却って人間的で個性的な形態によってしか表現され得ない。そこでこの文化価値を標準として、著しく価値ある又は著しく反価値的な個性をもったものを選ぶのが、文化科学の方法だ、と云っていい。文化科学の方法は、価値への関係づけ[#「価値への関係づけ」に傍点]を行なう。処が自然科学の方法は没価値[#「没価値」に傍点]的だと考えられる。――こうしたものが、リッケルトによる科学の分類[#「分類」に傍点]と、科学の方法[#「方法」に傍点]との、概略である*。
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* リッケルトの科学方法論の主なる著作。Die Grenzen der naturwissenschaftlichen Begriffsbildung. ―Naturwissenschaft und Kulturwissenschaft.―Die Probleme der Geschichtsphilosophie 等。
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リッケルトの科学方法論は、かくて自然科学と文化科学との根本的な区別[#「区別」に傍点]と対立[#「対立」に傍点]とを明らかにした。之は云うまでもなく一応の功績に数えられることが出来よう。だが大切な点は、この二つの科学の間の連関関係[#「連関関係」に傍点]が、之によっては少しも与えられていないということである。単に区別するということは、関係づけるということの云わば極めて無責任な初歩の段階にしか過ぎない。だからこの科学方法論に対しては、今云ったこの根本弱点に注目して、数限りない反対と批難とが浴びせかけられた。
リッケルトによれば、自然科学は法則を求める科学であり、之に反して文化科学は個性ある事象を選択する処の科学であった。普遍的法則はだから自然科学に於てしか許されない根本概念となる。――だがよく考えて見ると、自然科学が仮に法則を発見することを方法とする科学だとしても(そして夫は嘘ではないが)、ただ法則を発見しただけでは何の役にも立たぬ。科学の認識目的は、却ってそれから先にあるのであって、実は個々の事象に一つ一つこの法則をあて嵌めるということこそが、この科学の最後の意味での方法でなければならぬ。個々の事象から独立した法則などというものは考えられない。処がこの個々の事象は、たといリッケルトの云うような文化価値への直接な関係づけが一応無意味であったにしても、そうだからと云って決して全く没個性的なものではない。が夫が一つ一つ異った性質を有てばこそ、個々の[#「個々の」に傍点]事象なのだ。仮に法則がこうした諸々個々の事象からの共通な一般的な関係を抽出して出来上ったものだとしても、逆にこの法則をこの諸々個々の事象に当て嵌める時には、もはや単なる反覆などではあるまい。そこでE・カッシーラーは、法則とこの個々の事象との関係を、関数とその変数がとる個々の数値との関係として理解しようとする。一定の曲線を表わす関数はこの曲線の個々の点に就いて、単に自らを反覆するのではない。この曲線のカーヴ・トレーシングから考えて見れば判るように、法則たる関数は、個々の事象に相当する曲線上の(恐らく連続した)諸点を、次々に描き出し、生産[#「生産」に傍点]して行くのである。自然科学に於ける法則をば反覆する共通者であるかのように考えて片づけて了ったリッケルトは、発達した現代自然科学のこの法則の観念(関数概念)を知らないのだ、とそう批難するのである*。
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* E. Cassirer, Substanzbegriff und Funktionsbegriff.――従来の自然科学は何等かの実体[#「実体」に傍点]を中心として方法が成り立っていた。現代はその代りに関数[#「関数」に傍点]関係が用いられる。例えば因果法則も時間の変数を含んだ関数としての性質を持つ、という。
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カッシーラーの批難は、自然科学に就いてのリッケルトの認識不足を指摘する点では、多分或る意味に於て当っているだろう。そして実際、リッケルトは自然科学に就いて彼が発見したこの方法の規定を、ダイヴィング・ボードとして、その対立物の歴史学(文化科学)の方法を規定したのだったから、その限り、之は歴史学方法に就いての彼の認識の不充分さに対する、間接の批難にもならないではない。――だが独りカッシーラーに限らず、H・コーエンもP・ナトルプも、彼等自身、文化の科学に就いての見解は決して卓越したものではない。少くとも彼等の自然科学、特に精密自然科学、の科学性を科学一般[#「一般」に傍点]のイデーにまで押し及ぼそうとする立場からは、リッケルトが文化科学を文化価値に関係づけようとした意図は、決して理解されないし、まして征服され得ないだろう*。
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* なおW・ディルタイの系統にぞくするM・フリッシュアイゼン・ケーラーによる批判があるが(〔M. Frischeisen−Ko:hler〕, Wissenschaft und Wi
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