実験こそ人間的実践の、自然に対する働きかけの、尖端だった。模写の第一段階であった感覚乃至知覚そのものが実は単に受動的なものではなくて、認識・模写する社会的人間主体の主体による活動の、最初の段階に他ならなかった。
でこう見て来ると、反映・模写は主体の積極的な能動的な実践的活動によって、初めてその実際内容を得るのだ、ということになる。無論この一切の主体的な――主観の――活動は、物そのものを有りのままに把握するための活動でこそあれ、任意の主観的な作為を弄することによって、物そのものの有りの儘の把握から独立し離れて行こうがためではない。模写という認識の直接さ[#「直接さ」に傍点]、その真実さ[#「真実さ」に傍点]をより確保するためにこそ、この主観の実践的な能動性が、媒介者[#「媒介者」に傍点]となって介入し、こういう手続き[#「手続き」に傍点]・手段[#「手段」に傍点]・方法[#「方法」に傍点]を用いて、間接的[#「間接的」に傍点]にこの直接[#「直接」に傍点]さに至りつこうとするのである。この直接[#「直接」に傍点](Unmittelbar)さが、例えばカントに於ては物自体による心の触発となって現われ、そしてこの間接[#「間接」に傍点](手続き――Vermittelt)さが、その所謂構成説となって[#「なって」に傍点]現われたものであった。カントの構成説が模写説の単なる排撃に終ったのは、彼が自分自身提出した唯物論的な設問を貫き得ずに、問題の解決を観念論的な方向に限定したカントの偏局の責任だったのである。封建的遺制が著しく強力だった当時のドイツの啓蒙的な理論家カントにとっては、之は止むを得ない必然的な偏局だったのである。
認識即ち模写は一定の構成手続き[#「構成手続き」に傍点]によって初めて実際的に実行される。云うまでもなくこの構成が、認識する主体の何等かの勝手気儘に基くものであることは許されない。カントはそれ故、先天的で普遍的な人間理性に固有と考えられる構成の共通な一般的な規準を与えることによって、この構成手続きの客観性を保証出来ると考えた。処が例えばこの構成の規準の代表的なものである処の根本的な悟性概念、即ち所謂範疇なるものを、カントはどうやって導き出したかというと、夫は結局従来の形式論理学の判断の表に基くのである。そしてこの判断の表は、極端に云えばアリストテレスが文典から惹き出したのを整理したものに他ならない。だからカントの認識構成の規準は、云わば純論理的[#「純論理的」に傍点]に――アプリオリに――導き出されたものであって、カントの実質的な仕事は単に、すでに導き出されてあったこの範疇に就いて、それの認識構成の規準の資格を詳しく検定したに過ぎないとさえ云ってもいいのである(範疇の先験的演繹)。
だがよく考えて見ると、知識の客観性が、客観的存在そのものとは全く独立に、悟性とか理性とかいう何か主観にぞくするもの(範疇其の他はそうだ)の観念性[#「観念性」に傍点]によってだけ成り立つということは、非常に奇妙なことでなければならぬ。こういう知識の客観性と、客観的存在そのものの客観性とが、全く無関係だということは、変なことだと云わねばなるまい。――知識の客観性をまず第一に保証し得るものは、実はカントに於ては知識構成という主観の先験的な作用の完全な圏外にぞくしていた処の、例の「物が心を触発する」結果としての感覚であったのであり、つまり所謂意識によって物そのものが模写・反映されるということそのことであったのである。処がこの模写・反映の第一段階であった感覚乃至知覚は、他方に於て実は又主観の主体的な実践的な活動の第一段階でもあったのである。かくて知識の客観性を保証し確保し検閲し得るものは、主観の観念性[#「観念性」に傍点]どころではなく、却って正にこの人間の実践[#「実践」に傍点]だったのであり、実験や実証というものが、この実践の云わば理論的な手続きの第一段階だったのである。
それ故、知識の構成手続き、知識の客観性を保証し確保し又検閲するための知識構成の手続きは、要するに人間的実践[#「人間的実践」に傍点]に帰着する、ということにならざるを得ない。――処が人間の実践・実際活動は、云うまでもなく感覚や知覚や観察や実験や実証やの段階に止まるものではない。一般に社会に於ける社会人としての人間活動――生産活動・政治活動――こそ、この実践の意義に於ける内容でなければならぬ。人間社会の歴史は、人間のこの実践活動を通じて、展開される。実践という観念はこの意味に於て歴史的で社会的な内容を失うことが出来ない*。感覚や実験は、之が単に理論的活動乃至知識活動に限定された時に生じる一断面に他ならない。
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* 実践に就いて最も誤られ易い点は、それが常に何か倫理的、道徳的なものだと考えられる点だ。フィヒテはそこから、典型的な観念論[#「観念論」に傍点]の代表者となったのである。だが実践こそ、吾々が今まで見て来た筋書き通り、感覚や知覚となって第一に現われるもので、唯物論[#「唯物論」に傍点]の枢軸だったのである。
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そこで、今人間のこの実践活動が、歴史的、社会的なものだとすれば、同じくこの実践活動が知識構成の手続きであった以上、知識の客観性を保証・確保・検閲するためのこの知識構成過程も亦、要するに人間の実践活動に帰着するものであり、又後者の一部分[#「一部分」に傍点]として初めて成り立つことが出来るものだ、ということを結果するわけである。認識の客観性は、単に知識としての知識(実践から独立した孤城の主としての知識)の内には求めることが出来ず、人間の社会的な(又歴史的な)実践活動の一部分としての知識の内にしか求めることが出来ない。と共に、知識・模写は、何等かの仕方に於ける[#「何等かの仕方に於ける」に傍点]人間の社会的実践活動が介入して構成の労をとることなしには、事実上なり立たない、という結論になるのである。
尤もどういう仕方に於て実践[#「実践」に傍点]の要素が認識[#「認識」に傍点]の過程に介入するかは、分析を必要とすることで、単に知識の理論的な行きづまり――夫は理論的矛盾となって現われるが――を実地や経験というものの責に転嫁して、理論的な解決を打ち切ることは、ファシスト的アクティヴィズムか、僧侶的な神秘主義のデマゴギーにぞくする。云うまでもなく理論はどこまでも理論であり、之に対して事実はどこまでも事実である。知識は知識であり、実践は実践なのだ。だがこの理論や知識のそれ自身の自律による一貫性が、実は経験的事実なり実践的な問題の解決なりの、線に沿うてしか起こり得ないということ、或いは起こらなくてはならぬということ、夫が今大切なのだ。実践は理論に向って、思い出したように時々干渉するのではない。例えば物理学の理論は既存の実験を根拠として成立しているのであって、単なる理論があって夫が行きづまった時偶々実験に訴えるのではない。実践は常に認識の裏や表につき添っている。如何なる認識もその意味に於て実践の理論的な所産[#「理論的な所産」に傍点]に他ならない。
で、それだけ云えば、意識による実在の所謂模写[#「模写」に傍点]・反映[#「反映」に傍点](即ち認識だが)なるものが、観念論哲学によって想像されるような受動的で静止したステロタイプのものではなくて、却ってそれ自身主体の実践的な能動による構成[#「構成」に傍点]に他ならないということが、明らかだろうと思う。但し夫にも拘らず、認識は常に、ものをそのあるがままに捉えるという模写・反映の鏡の譬喩の元来の意味を、失うことは出来ないのだ*。
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* なお詳しくは、拙稿「実践的唯物論の哲学的基礎――物質と模写とに関して」(『理想』三八号)〔本全集第三巻所収〕を参照。
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さて以上は、一般に知識乃至認識に就いて、その模写[#「模写」に傍点]と構成[#「構成」に傍点]とを説明したのであったが、今や吾々はこの一般関係を科学[#「科学」に傍点]にまで押し及ぼし得るし、又押し及ぼす必要があるのである。科学は知識乃至認識の或る特別な組み合わせの場合に他ならないだろうからである。と共に、この科学としての知識乃至認識に至って初めて見出される固有[#「固有」に傍点]な、実在の模写[#「模写」に傍点]と知識の構成[#「構成」に傍点]とに就いて、分析することになるのである。処が模写の夫々の仕方と云えば、つまり知識の構成のことだったから、科学一般に固有な模写ということは、つまり科学一般に固有な知識構成[#「知識構成」に傍点]は何かということに帰着する。科学論の問題は今や、模写[#「模写」に傍点]の問題を取り扱う認識論[#「認識論」に傍点]の主題から、知識構成[#「構成」に傍点]の理論へ移る。――
処で科学とはどういう資格を有った知識のことであるか。だがよく考えて見ると、知識それ自身が一つの構成物であった。そして構成するには一定の構成目的とその目的に適した構成手段とがあったわけだが、知識はこういう目的と手段との間に成り立つものであった。処がこの構成目的は何かと云うと、前に云ったようにつまり実在の模写に他ならない。して見ると、知識なるものはすでに、どういう場合でも一つの組織物[#「組織物」に傍点]=体系[#「体系」に傍点]であり、そしてその体系が実在の構造や機構に照応すべく之を反映しているのだ、ということになる。だが、実在の任意の一部分を取っても夫も亦実在の名に値いするのだから、実在の構造や機構というものも、実在の任意の一部分の構造や機構のことであって差閊えはない。そうした云わば任意の断片的な実在部分に照応する反映が単に所謂知識[#「知識」に傍点](Wissen)と呼ばれるものだ。
処が実在それ自身は決して任意なバラバラなものの寄せ集めではない。実在は任意の諸部分が平面的に結び付いて出来上っているものではない。実在はその各部分の間と部分の集団の各々の間とに、実在そのものにとって必然な一定の秩序と段階づけ・階層づけとを持っているのである。広義の物理現象は云うまでもなく無限の諸部分からなっている。力学的現象・熱現象・電磁気現象・化学現象等。夫々の現象も亦無限な諸部分からなっている。又更に、同じ科学現象でも機械的な運動量移行の現象もあれば、重力や一般の加速度現象もある。この広義の物理現象の外に、更に生命現象があり、その外に又社会の歴史的現象がある。だがこうして実在の諸現象・諸部分は、一定のコオーディネーションとサブオーディネーションとによって、一つの体統をなして、集団し類別し対立しているのである。――今夫々の実在部分に照応する所謂「知識」は、実はやがてこの夫々の実在部分が一つの客観的な体統[#「体統」に傍点]をなすことに照応して、諸知識そのものの間にこの体統を諸知識体系[#「諸知識体系」に傍点]として反映するようになる。諸知識は実在の体統に照応すべく体系づけられ組織的に組み合わされる。之は知識そのものの本性上の約束から云って、極めて当然なことだったのである。だが恰もこの知識の組織(Wissen−Schaft)が、「科学」(乃至学問)の名を持つものだったのである。――科学を単なる知識から区別する処の科学らしさ=科学性を、ヘーゲルなどはだからその体系[#「体系」に傍点]の内に求めている*。
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* フィヒテは之に反して、学問(科学)の特色を体系よりも寧ろ、知る[#「知る」に傍点](Wissen)ことに、知ることの確実さ[#「確実さ」に傍点](Gewiss)に求めた。即ち彼によれば科学の確実さは、実在との関係によって与えられるのではなくて、意識の主観的な心組みの確かさ如何によるわけである。――ではその体系がどうやって成り立つか、に就いては様々な意見がある。例えば科学体系がシムボル
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