とは別として)写すという、その真実さ[#「真実さ」に傍点]を有つ点に、譬えたのである。ここで真実や真理ということは最も率直に云って、ありの儘[#「ありの儘」に傍点]ということだ。知識が真実であり真理であるためには、少なくともまず第一に、事物をありの儘[#「ありの儘」に傍点]につかまなくてはならぬ。真実とか真理とかいう常語が(哲学者のムツかしい術語は別にするとして)之を要求しているのである。そこでこの「ありのまま」の真理を掴むということを、模写[#「模写」に傍点]という譬喩を以て云い表わしたに他ならない。だからこそ、知識・認識と模写・反映とは、同義であり反覆なのである。

 ではなぜ意識は自分とは明らかに別なものであるこの物を、反映・模写出来[#「出来」に傍点]るのか、と問うかも知れない。それが出来るか出来ないかが、抑々カントの天才的な疑問だったではないか。なぜ物はありのままに掴まれ得るのか。――それはこうである。まず、意識はそれが如何に自由で自律的で自覚的なものであるにしても、脳髄の所産であるという、一見平凡で無意味に見える事実を忘れてはならない。意識が脳髄の所産であるなどは、意識の問題にとってどうでもいいではないかと哲学者達はいうなら、それならば少なくとも之を認めても差支えはない筈だろう。意識は脳髄という生理的物質の未知ではあるが或る一定の状態乃至作用だと考える他に現在道はない。之は生理学の真理を認める限り哲学者と雖も想定しなければならぬテーゼである。もし之を承認しないならば、意識の発生と成立とを哲学者はどこから説明するのか。もしその説明が与え得られないとすれば(霊魂の不滅説をでも科学的なテーゼとして持ち出さない限り)、吾々が今与えたような説明が現在可能な唯一の説明ではないか。哲学者はどこにこの説明を斥ける権利があるのか。それとも夫が到底説明し得ないということでも説明しようとするのであるか。だが不可能を説明し得るのは数学に於てしかあり得ない出来事だ(例えば五次以上の方程式の一般解決の不可能の如き)。
 さてこの物質は云うまでもなく自然にぞくしている。夫が自然の歴史的発達の一つの高度な所産である他はないということは、現在の天文学・地質学・進化論・生物学・等々が一致連関して結論している処である。で吾々は、ブルジョア観念論哲学者の苦々しい顔色にも拘らず、意識は自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から何等か発生したものだ、というごく当り前な哲学的結論に来るのである。
 こういう風な云い方をすると、今日の所謂哲学者達は、夫が如何にも素朴な又は幼稚な所説だというような顔をするかも知れない。科学は科学だ、自然科学の成果を以て哲学の根本問題を律することは、枝から幹を派生させるようなものだ、科学と哲学とはその立場が、アプリオリが、違っている。科学的知識の限界を明らかにするものこそ哲学ではなかったか、とそう批判主義者などは云うだろう。だが、こうした批判主義による科学と哲学との超越的な区別[#「区別」に傍点]が、如何に学問の統一をアナーキーに陥れたかを吾々はすでに見た。アプリオリが違い立場が異ると云っても、世界が二つあるのだろうか。仮に自然界と意識界という二つの世界があるとしても、その二つの世界の結合こそが今の問題だった。仮に自然界と結合した意識界の外に、純粋な意識界とでもいう世界があるとしたら、前の意識界と後の意識界とは無関係なのだろうか。無関係なものがなぜ同じ意識界の名を持っているのだろうか。
 哲学者が意識の問題を、自然の問題から切り離して問題にしてもいいように考えるのには、併し一つの重大な理由があるのである。彼等が意識の問題と考えているものは、実は意識そのものの問題ではなくて、意識が有つ根本的な併し単に一つの性質である処の、意味[#「意味」に傍点]の世界に就いての問題に他ならないのである。なる程意識は、意味を意識的に有ち得る唯一の存在(Bewusst−Sein)である。或いは意味を有つということに意識の存在性(意識されてあること)があると云ってもいい。そこで哲学者達は、意識の世界の心算で意味[#「意味」に傍点]の世界を持って来る。之ならば確かに自然界と一応別で、又それとは秩序=世界を全く異にしているだろう。
 だが第一、意味そのものは何等の時間[#「時間」に傍点]を有っていない、意味そのものはその点で超時間的で永遠なものだ。処が意識は現に時間を以て流れている。意識は流れないという考え方もあるが、それでは流れると考えられる方の意識とこの流れない方の意識とはどう関係するか、と問わねばならぬ。もしこの間に関係があるとすれば、哲学者は更に進んで、意味とこの流れる意識との連絡を与える義務も課せられることになるだろう。――でもし意味と意識とが別ならば、哲学者が意識と称するものは意識界ではなくて、単に超時間的な意味の連絡界[#「意味の連絡界」に傍点]のことに過ぎない。それならば確かに、宇宙の自然の時間的秩序とは無関係だろう。だがそうすれば、こういう意味をどんなに解釈[#「解釈」に傍点]しても、物とそれの意識による認識=知識との関係の理解とは、全く無関係な筈だ。そうするとこの所謂哲学者達――実は一切の発達した高級な観念論哲学者達――は、認識理論に一口たりとも容喙する権利がない、ということになって来る*。
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* 現代の観念論の殆んど凡てのものは、実在の秩序の代りに、意味の秩序を与えようとする。世界を認識する代りに、世界が有っている意味を解釈しようとするのである。――この点の批判に就いては拙著『日本イデオロギー論』〔前出〕参照。
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 で単なる意味の世界の解釈でなく、実在する意識と実在する自然との関係になれば、「科学」が与える成果を無視して、如何なる「哲学」的な認識理論も成り立たない。処で、意識は自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から発生したのだったが、そこから物と心との、客観と主観との、存在と意識との、対立そのものが[#「対立そのものが」に傍点]、発生[#「発生」に傍点]したのである。物と心、存在と意識、客観と主観は、単にいきなり二つ並んでいるのでもなければ、いたものでもなく、又単に論理的な仮定などとして想定される対立でもない。両者の関係それ自身が、自然的秩序に於て、宇宙時間の内に、発生した処の一関係なのだ。
 さてこうしてお互いの対立を発生せしめられた存在(物・客体的実在)と意識(心・主観)とであるから、意識ある自然が他の自然界から分裂するその分岐点にまで仮に時間的に溯ったとすれば、そこには両者の直接な実在的な同一[#「直接な実在的な同一」に傍点]が横たわっていた筈だったが、処が人間が生まれるのは、すでに存在と意識とが分裂対立して了った後なのだから、この直接な同一は、現実には[#「現実には」に傍点]実在的なものとしてはもはや存在し得ない。意識は云わば祖先以来の記憶(プラトンの想起説に於けるような)のようなものとして、観念的に[#「観念的に」に傍点]、存在とのこの直接な同一性を再発見する他はない。実在的な直接的同一の代りに、存在と意識との間の非実在的な、云わば媒質(メジウム)のない、直接的同一が、ここに設定される。両者はここで、実在的には離れているが、それにも拘らず無媒質的に直接している。――処で鏡と原物との関係が丁度それであって、原物は鏡から物理的に離れているにも拘らず、否物理的に離れていることによって初めて、鏡に像となって反映され得るのである。――だから、意識が存在を模写反映し得るという事情は、それ自身自然の宇宙時間的発達に基く結果であって、単に事実上や理論上の仮定[#「仮定」に傍点]として想定されねばならないだけの関係ではないのである。

 だが、以上は知識=認識ということが取りも直さず模写・反映ということに他ならないという、認識乃至模写という観念[#「観念」に傍点]、乃至は言葉[#「言葉」に傍点]の説明であって、まだ必ずしも、そのものの実際の機構の説明ではない。――さてそこで、カントによれば物そのものが主観を触発した結果が感覚だというのであった。ここに模写なるものの第一段階があるのである。つまり模写なるものの内容は、まず感覚として、或いは感覚から、始まるというのである。
 尤も感覚という心理学上の概念は今日では必ずしも明確なものではない。形態心理学などの主張によれば、感覚は心理的実在性を有った要素ではなくて、単に心理学者が仮構によって造り出した心理要素に過ぎない。直接に与えられた心理的要素は感覚ではなくて、知覚[#「知覚」に傍点]だというのである。事実カントなどは感覚をば与えられた無形式な直観素材だと考え、之を改めて時間空間という直観形式にあて嵌めて初めて、知覚という資格を持った知識になると考えているから、感覚という概念のこの訂正乃至抹殺はカント認識理論の根本(その認識構成主義理論の最初の一部分)をゆり動かすものだろう。
 だが吾々の場合にとっては、感覚でも知覚でも大した違いは出て来ない。それが、客観的存在としての物そのもの(実は「物」ではなくて他の何であっても大した違いは出て来ないが)が主観に与えた影響・結果であることを、示してさえいればいいのである。――その意味で、知識・認識即ち実在の模写が、第一に感覚乃至知覚として現われると云っていい。一切の知識はこの感覚乃至知覚から始まり[#「始まり」に傍点]、それから発達[#「発達」に傍点]するのである。
 処がここですでに何より注意しなければならぬことは、どんな感覚・知覚であっても、具体的な事実としては決して単なる主観の感動によって成り立ち得るものではない、ということだ。知覚が物からの影響であり、所謂印象[#「印象」に傍点]であると云っても、単に、静止している主観(それは完全に死んだ主観のことになるだろう)に物が作用するということではない。例えば触覚は主として身体の部分的移動によって発生する。吾々が少しも身体を動かさないとすれば、吾々は遂に何等の触覚も覚えずに死んで了うかも知れない。触覚の発達である嗅覚や味覚は、事実筋肉の能動的な運動を介して初めて生じるだろう。視覚も亦眼球の運動によって知覚を生じるのが具体的な事実である*。――それ故感覚乃至知覚そのものは、客観的な物自体からの印象であるにも拘らず、その印象を生ぜしめる反射能力としての積極的な能動性に基いているのが実際なのである。カントは感性を単に受容性[#「受容性」に傍点]の能力と考え、自発性を欠いたものだと極力主張しているが、そういう所謂感覚[#「感覚」に傍点]が心理的事実に遠いことは、すでに述べた。模写は事物のありのままの反映であるにも拘らず、意識する主体の自発的な能動性を有っているのである。
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* 感覚乃至知覚の有っているこの能動性を観念的な云い現わしで云えば意志[#「意志」に傍点]の形をもっていると云うことが出来る。コンディヤックの感覚論から、メヌ・ド・ビランの主意説が展開した。――かくて知覚乃至感覚の能動性の理解を一歩誤れば、唯物論の代りに典型的な観念論を結果する。一般に能動主義[#「能動主義」に傍点]の危険はそこにあるのである。
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 だからこそ又、反映・模写に於ける誤謬[#「誤謬」に傍点]の可能性も潜在し得るわけで、それでなければ誤謬の存在は説明出来なくなるし、又誤謬を訂正することも、之を訂正する論理学や方法論も、全く無意味にならざるを得ない。ただの死んだ鏡には無論こうした能動性はない。だが認識する者は実は鏡ではなくて、社会的に生きている実践的な[#「実践的な」に傍点]人間だったのである。
 実は感覚乃至知覚というものが、人間的活動・実践の最も端初的な形態だったのである。科学の科学性はその実証性=実験性にあったが、この実験乃至実証とは終局に於て知覚に訴えるということであった。そしてこの
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