体に於て外部的にしかつき合わされなかったから、この哲学(ブルジョア哲学なのだが)にどんな分裂と対立があろうとも、それとは一応無関係に、とに角自然科学自身はその唯一性と単一性との理想を保維出来た。処が社会科学は之に反して、大体から云って哲学(ブルジョア哲学)と内部的に交渉を持ち過ぎていたため、哲学の分裂・対立はすぐ様社会科学そのものの立場の分裂・対立となって現われざるを得ない、というわけである。
無論、夫々の社会科学の立場の分裂・対立と言っても、実は全くの無政府状態なのではない。吾々はこの様々に異った立場をば適当に類別し系統づけ、それからある限度まで相互に近づけたり折衷したり、時には総合したりさえすることが出来るように見える。なぜならブルジョア社会科学各々の立場と雖も何等か合理的に説明出来るような存在理由なしには、対立したり分裂したりする筈がないからだ。だがそれにも拘らず、例えばブルジョア経済学の立場とマルクス主義経済学の立場とを、その本質に於て総合したり合致せしめたりすることは出来ない。が、それと同様に、同じブルジョア社会科学同志の間に於ても、立場のこの種の絶対的な対立は決して珍しくはないのである。ここには全く排他的な矛盾[#「矛盾」に傍点]が横たわっている。――尤も簡単に言って了えば、真理には二つないので、現実の事実や事情に照して見れば、二つの理論の是非は原則的に決定出来る筈であるが、併し実際問題としては、正当な理論と雖も、相手の誤りを理論的に克服して之を相手に説得することが困難な場合が、極めて多いのである。
そこで問題は、一般に社会科学(乃至歴史科学)が少くともその単一性と唯一性との理想を保維し得るためには、どういう哲学[#「哲学」に傍点]と内部的に結びつかねばならぬか、である。併しそのために必要なことは、この結びつくべき哲学そのものが又、唯一性と単一性との理想を保維し得る形の学問でなければならぬということだ。処が実際問題として、この唯一性と単一性とを有った哲学は、今日、唯物論の組織以外にはないのである。ブルジョア社会の観念界に順応した各種各用途のブルジョア観念論は、その独創性と深刻な思索との口実の下に、実は、学派的セクトに基く思いつきや、反理論的な迂路・徒労・無意味な反覆・などを敢えてしている場合が、殆んどその大部分をなしているといっても云い過ぎではない。で今社会科学が真理を有つためには、それと内部的に結合すべき又は現に結合している哲学は、ブルジョア観念論であることは出来ず、正に唯物論でなくてはならぬ、ということになる。実際上の関係から云ってそうなのである。
この実際上の関係は併し、云うまでもなく理論上の根拠を有っている。そしてそこに問題の鍵が横たわっている。――一体なぜ現代唯物論だけがその学問上の単一性と唯一性とを保証されているのか。それはその体系の動力のメカニズムである範疇組織[#「範疇組織」に傍点]が有っている特質から来ることである。しばらく夫を見よう。
哲学は一般に方法[#「方法」に傍点]と体系[#「体系」に傍点]とに区別される。この区別には異論はないが、併し組織し体系づけるためでない方法はあり得ないし、方法なしに出来上った組織、体系もない。して見れば二つは同じ過程を指す二つの言葉である他はない。哲学の生命はこの方法乃至[#「乃至」に傍点]体系に存するのである。今この方法を普通に論理[#「論理」に傍点](方法機関――オルガノン)と云い、体系を範疇組織[#「範疇組織」に傍点]と云っていることを思い起こす必要がある。つまり論理即ち範疇組織が、哲学の方法であり体系であり、哲学の真髄なのである。かくて一般に哲学の相違は、その体系の相違に、その方法の相違に、その論理即ち範疇組織の相違に、原因する。
範疇とは元来根本概念のことであり、従って一応は根本観念のことだから、その限りでは全く主観の任意か自由かによって左右され得るわけである。従って範疇組織も、一応任意な体系に組織される自由を有ってはいる。ここに一切の観念的哲学の殆んど無政府的な乱立を結果する原因が潜んでいる。如何なる哲学を採用するかは、その人が如何なる人となりであるかによるのだ、と代表的なドイツ式主観的観念論者、フィヒテなどは、断言している。
だが他方範疇は実は事物そのものの性質を抽象・要約・普遍化したものであればこそ、その存在理由を有っているのだ。概念とは実はただの観念ではなくて、事物を把握するに適した限りの観念のことだった。そうすればこの根本概念の相互の間の必然性によって結びついて出来上った範疇組織も亦、決してそんなに勝手に主観的な必要だけで出来上ったものではあり得ない筈だ。従ってこの範疇組織がそれ程無政府的な乱立をするのは、その組織内にどこか範疇組織としての資格を欠いた点が介在するからであるに違いない。では一般に観念論哲学の範疇組織にはどういう欠陥があるのか。
一体観念論の根本特色の一つは、それが存在の解釈[#「解釈」に傍点]だけを目的とする哲学体系=方法だということである*。与えられた与件そのものは変更することなく、ただ単に之を適宜に置きかえるということがその認識目的であって、そのための方法は、ただそうした意味の解釈[#「意味の解釈」に傍点]にさえ役立てば良いのである。だから例えば自然の存在は人間の存在よりも先であり基礎的であるという実在的[#「実在的」に傍点]な認識の代りに、自然よりも人間の方が意義が深く価値が高いという意味上[#「意味上」に傍点]の認識が、置きかえられるのである。その結果人間が自然を産み出す(神が世界を創造した)かのような口吻の哲学体系も出来上るのである。宇宙の時間の流れの秩序はどうでもよくて、意味と意味とを直接に時間抜きにつらねるために、一切が瞬間(又は永遠)に還元される(瞬間は止まれ――メフィストとの賭けに負けた[#「負けた」に傍点]ゲーテの「ファウスト」は叫んでいる、歴史の秩序を打ち切ったニーチェ――「瞬間は永遠である」、キールケゴールの書物 Der Augenblick 等々)。意味は存在ではないから宇宙的時間の上では零であり、瞬間なのだ。
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* 拙著『現代哲学講話』及び『日本イデオロギー論』〔本全集第三巻および第二巻所収〕に於て、各種の解釈哲学の批評を与えた。
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だが、今認識の目的が意味の解釈ではなくて現実の事物の把握であり、之をマスターすることであるとすれば、こうした解釈の範疇組織は、それ自身独立孤立しては全く用をなさない。普通に感覚と呼ばれているが併し正当には知覚と呼ばれるべきものは、対象と主体との間の物質的な相互の変化作用の心理的結果のことだが、事物をマスターし之を実際的に現実的に認識することは、終局に於てこの知覚に由来せねばならず、又之に由来することをば理論的にも自覚しているものでなくてはならぬ。処でこうした認識は恰も、すでに述べた意味に於ける実験[#「実験」に傍点]という特色を有っているのである。事物を変更することによって或る印象を受け取り、更に之をその事物過程の延長に於てテストし検証することが実験なのである。して見ると、現実の事物の実際的な[#「実際的な」に傍点]認識のために必要な認識方法=範疇組織は、実験の内にその先端を有つような夫でなくてはならぬということになる。範疇組織がすぐ様実験の用具ではあり得ないが、実験という認識の根本特色を保維し生かすための概念組織が、唯一の正当な範疇組織でなくてはならぬ、というのである。
認識のこの実験的[#「実験的」に傍点]な特色(それは特に自然科学の科学性をなすものに他ならなかった)を社会的に云い直せば、認識の技術的[#「技術的」に傍点]な特色だということになる。蓋し実験と技術とは実践の系列の二項目であって、人間が自然に対して能動的に直接働きかける社会部面は、技術の領域に他ならないからである。この意味から云って正当な意味に於ける範疇組織は、必ず技術的範疇組織[#「技術的範疇組織」に傍点]でなくてはならぬのである*。唯物論による範疇は実は正に之なのである。
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* 技術的範疇の意味に就いては拙著『技術の哲学』〔本巻所収〕を見よ。
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唯物論のこの技術的範疇の組織は、云わば実験的な特色を有っていたから、之を現実の実際性(アクチュアリティー)に照して検証し得る本来の機構を有っている。ここにこの範疇組織の実在的[#「実在的」に傍点]な地盤があるのである。この実在的な地盤に立ち帰る時、理論に於ける一時の対立や外見上救い難く見えた矛盾も、之を単一的に唯一性を以て整理出来るような、理想的方針が見出されるわけである。――唯物論哲学の学問性のもつ唯一性と単一性は、即ちその科学性=科学らしさは、この実験的な技術的な特質に、即ちその実際的な実践的な特色に、由来するのだった。処が解釈のための観念論的な範疇組織は、科学性にとって最も大切なこの特色を欠いていたのである。そこに立場相互間の放恣な無政府状態が出現しなければならぬ理由もあったのだ。
さて、社会科学乃至歴史科学は、この唯物論になる技術的範疇組織と結合する時、初めてその唯一性と単一性とを、即ち又その科学性を、受け取ることが出来る。社会科学乃至歴史科学と哲学[#「哲学」に傍点]一般とのかの内部的結合の、唯一の正当なそして又必然的な形態は之だと云わざるを得ない。――マルクス主義は云われているようにフランス社会主義とイギリス古典経済学とドイツ古典哲学との三つの古典的源泉に基いている。之は同時に、マルクス主義が、社会主義と経済学と哲学との三契機の統一的[#「統一的」に傍点]な科学的理論であることをも示している。ここにすでに、哲学と経済学・政治学其の他の諸社会科学部門との、内部的で必然的な統一的連関が見て取れる筈であった。そしてこの科学的統一を貫くものが、唯物論の技術的範疇組織(唯物弁証法)なのである。
唯物論という範疇組織によって、ブルジョア社会科学(乃至歴史科学)とブルジョア哲学との間のかのルーズな内部的因縁は、初めて組織的なものにまで整頓し直されるのだが、同時に之によって又、自然科学とブルジョア哲学との例の外部的な機械的対立や機械的合致が、是正される。一体なぜ自然科学と哲学とがそういう外面的な関係に置かれねばならなかったかと云えば、結局哲学に於ける範疇と云えば、自然科学の夫と全く別な世界のものだと仮定してかかっていたからなのである。だからこの考え方から行けば、逆に二つが別でない限りは、自然科学は=哲学とならざるを得ないということになる。――処が吾々の見た処によると、自然科学の特色をなしていた認識の実験性[#「実験性」に傍点]は、やがて哲学の方の範疇組織そのものの技術的[#「技術的」に傍点]特色となって現われるのであった。自然科学と哲学とは、だからこの根拠から云って、もはや外部的な対立に止まることは出来ないのであって、社会科学と哲学との連関にさして劣らず、二つは内部的な根本連関を有つこととなる。
では一体自然科学はどこで哲学と区別されるのであるか、と問われるだろう。範疇組織に共通性がある以上、二つは結局同じものに帰着しはしないか。それならば併し、哲学は機械的に自然科学に解消されて了う他はない。だが一方に於て、哲学が一般に社会科学乃至歴史科学に対して極めて密接な関係を有っていたという事実を、ここで思い出さねばならぬ。で、もしこの哲学が自然科学に解消し得る位いなら、同じく社会乃至歴史科学にも解消して了わざるを得ない。従って社会・歴史の科学は自然の科学に解消せねばならぬということになる。これは想像も出来ないことだ。だから哲学は決して自然科学に解消しない、という結論となる。ではどういう連関と区別とがこの二つのものの間にあるのか。
だが夫を解明することは割合簡単に出来る。歴史的社会の唯物論的把
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