搏Iな場合に他ならなかった。だから、この点から云って、自然科学に於ける因果性の観念は必然的に、その唯物弁証法的理解へ到着せざるを得ないのである**。
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* W. Heisenberg, Die Physikalischen Prinzipien der Quantenmechanik (1930) を見よ。
** この点から見ると、唯物論[#「唯物論」に傍点]を罵ろうとする所謂偶然論者[#「偶然論者」に傍点]の見当違いが、よく判ると思う。――併し「われ誠に汝らに告ぐ、今日なんじは我と偕に天国に在るべし」。
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宇宙進化に就いては、天体の進化理論(カント・ラプラスの星雲説と其の後の宇宙説――之は現代に於ては各方面から長足の進歩をなし物理学的研究にとっての最も重大な源泉となっている――)と、生物の進化理論(それは地球自身の進化と平行して研究される、――生物学=古生物学=地質学)とがあることを、注意するに止めよう(之は重大であるが紙数がないので割愛せざるを得ない)。ただ地上に於ける動物の進化が、人間社会を形成する段階(エスピナは之を「動物社会」と呼んだ)に至る迄、自然そのものの弁証法の領域であることを忘れてはならぬ。そして、栽培植物や飼育動物は、技術的にマスターされた自然そのものの、自然弁証法の実証となるだろう。――自然弁証法(自然科学的世界)と史的唯物論(社会科学的世界)とが統一的に連関する環が、ここにあった。
さて以上の自然科学的諸根本概念を貫いて、諸自然科学[#「自然科学」に傍点]はその歴史的な発達[#「その歴史的な発達」に傍点]をもつ。今まで見た諸範疇の弁証法も、諸科学の歴史的発達に於て、初めて全体としての統一を持つのである。と共に、ここから諸自然科学の統一的連関[#「自然科学の統一的連関」に傍点]を与えることも、大してムツかしいことではないだろう。自然弁証法は、自然科学的世界として、最後にこのことを要求するのである。だが之は、すでに触れた科学の分類の問題其の他に譲ることにする*。
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* ただ問題なのは数学の自然科学的世界に於て占める、科学としての位置だろう。今日の数学(総合・数解析・幾何学を含めて)が意識的に経験や実在から独立な体系を持とうと企てることは、著しい特色だ。だがそれにも拘らず、数学者の主観的意図に関係なく、各種の数学が客観的には物理学に用い[#「用い」に傍点]られているということは何を意味するか(計量的幾何学や解析による物理学的理論一般は云うまでもなく、其の他群論による量子力学、テンソル=カルキュラスによる相対性理論、マトリックスによる量子力学、等々)。――蓋し数学は計算[#「計算」に傍点]や測量[#「測量」に傍点]という要素的[#「要素的」に傍点]な本質から理解されねばならぬ。そうすることが、数学全般の歴史的(弁証法的)理解の唯一の道なのである。前者は算術・代数・微積分となり、後者が各種の幾何学となる。ここに実在[#「実在」に傍点]と数学[#「数学」に傍点]との、従って又自然科学[#「自然科学」に傍点]と数学との、基本的な連関が横たわる。其の他の高級乃至抽象的な数学形態は、これからの歴史的派生物に他ならない。で、そうとすれば、数学は歴史的に云って自然科学の一種と見做されることも出来るだろう。或いは、少なくとも数学をアプリオリな純形式的な科学として、之を自然科学から絶対的に隔絶して了うことは、その理由を失うだろう。
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自然弁証法はこうだとして、さて次に社会科学的世界[#「社会科学的世界」に傍点]の特徴である史的唯物論へ移ろう*。
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* 以下は大体、拙稿「唯物史観とマルクス主義社会学」(岩波講座『教育』の中)〔本全集第三巻、『現代唯物論講話』中の「社会科学論」〕の一部分に基いて之を訂正したものである。――史的唯物論の典拠は枚挙に遑ない。そして之に触れた教程も極めて多い。史的唯物論なる社会科学的世界は、今日すでに或る意味に於ける体系[#「体系」に傍点]をなしつつ発展しているからである。
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便宜上、史的唯物論=唯物史観を、まず定説(体系)と方法とに分けて述べよう。第一に史的唯物論の定説に就いて。――
史的唯物論の問題は、人間[#「人間」に傍点]の存在という事実と共に始まる。人間はその時代々々の与えられた一定の物質的生活条件の下に、行為し生活している。処でこの人間生活の過程は、一口で言えば食うことと産むこととをその物質的根柢としている。言い直せば、人間の生活過程は生活資料の生産と新しい個体[#「新しい個体」に傍点]の生産とを、要するにそういう物質的生産[#「物質的生産」に傍点]を、その根柢としているのである。だが人間生活を他の動物生活から区別するものは、人間が個体を生産する能力を有っているという点にあるのではなくて、人間が生活資料を優れて生産し得るという処に、即ち労働[#「労働」に傍点]によって之を生産するという処に、而も労働手段[#「労働手段」に傍点]乃至要具[#「要具」に傍点]の生産(労働による)を通じて之を生産するという処に、横たわる*。こういう人間的な労働による物質的生産は併し、個々の人間にとっては初めから与えられたものとしての、即ち彼の意志の自由からは独立な客体としての、様々な――自然的及び歴史的に規定されている――物質的生産条件の下で初めて、社会的に一定の具体的な形を取るのである。
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* この労働手段の体系が、「技術的なるもの」であることはすでに述べた。――之は技術的なるもの[#「技術的なるもの」に傍点]の領域である。
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人間的労働による物質的生産――それはすでに個人的な意味を脱して了った社会的なものだが――には併し、労働手段の外に、労働の対象物[#「労働の対象物」に傍点]がなくてはならぬ筈である。労働手段と労働対象とが生産のための手段[#「生産のための手段」に傍点]となる。この生産手段を用いるものは人間の労働力である。この労働力と労働手段と労働対象とを、抽象的にではなく、一定の与えられた社会の発展段階に於て具体内容を有ったものとして、考える時、それがこの生産力に外ならない(マルクスの所謂「抽象的人間労働」による「労働力」も、そういうものとして一定の社会条件の下に具体的内容となった処の、生産力[#「生産力」に傍点]にぞくする)。
併し、労働手段も労働対象も、生産する個人にとっては、自然的及び歴史的な所与であり、労働手段のそれ以上の発達も労働対象のそれ以上の産出・発見も、この与えられた条件によって制約されている。そればかりではない、このような生産手段の発達は各々の部分に於ては個人の意識的工夫に依存すると考えられるが、その全体に於ては、各個人に対してすでに自分の意志では左右出来ない客観性を持っている。生産手段は個人一般[#「個人一般」に傍点]という仮定物から見れば個人の自由によって発達することにもなるが、本当の個人である各個人[#「各個人」に傍点]にとっては、その意志の自由とは独立に発達する。この生産手段は超個人的に、社会的に、客観的[#「客観的」に傍点]に、歴史的発展をなすものとして、言い表わされねばならない。之によって決定される生産力は、単にその材料が物理学的(例えば機械・道具・工場)乃至生物学的(人間的労働力)物質[#「物質」に傍点]を根柢としているからばかりでなく、又今言った客観的[#「客観的」に傍点]だという意味からも、物質的[#「物質的」に傍点]でなければならないわけである。生産力は一つの唯物論的[#「唯物論的」に傍点]概念でなくてはならない。
この物質的な生産力の与件は、社会に於ける一定の生産様式[#「生産様式」に傍点]を造り出し、この生産様式がそれに対応する一定の物質的生産諸関係[#「物質的生産諸関係」に傍点]をなり立たせる。この生産諸関係が、所謂経済[#「経済」に傍点]関係と呼ばれる機構の本質であり、それが社会関係[#「社会関係」に傍点]の基礎建築・下部構造をなす。ここに社会の物質的地盤[#「物質的地盤」に傍点]が横たわる。――経済学[#「経済学」に傍点]はここに成立する。
社会に於ける生産諸関係は、財産の所有関係[#「所有関係」に傍点]を伴って来る。今この所有関係が社会に於て、個人相互が承認すべき公共的な一関係として、意識化[#「意識化」に傍点]されると、それが法律制度[#「法律制度」に傍点]に他ならない。無論法文の外見からみれば、法律は必ずしも所有関係を規定しているものばかりとは限らないが、法律制度の本質から言えば、それは与えられた一定の所有関係を合法化すための体系[#「合法化すための体系」に傍点]でしかない(法律学[#「法律学」に傍点]の領域)。――法律制度が併し一寸見ると露骨には経済的な所有関係を示さない理由は、法律が直接にこの関係を言い表わす代りに、政治制度[#「政治制度」に傍点]という関係を通過するからである。だがこの政治こそ、一定の与えられた生産関係・所有関係を、保持し強化するための、人間行為の実践形態の一つなのである。通常の意味での政治とは、人間乃至人間群が、それが住む一定の既成の社会秩序[#「社会秩序」に傍点]を維持するために、他の人間乃至人間群を、何かの物理的威力をたのんで、支配[#「支配」に傍点]することである。処がこの社会秩序と考えられるものこそその実質に於て、社会に於ける所有関係[#「所有関係」に傍点]に他ならない。生産という人間的実践が物的体系として定着されたものが所有関係[#「所有関係」に傍点]であり、政治というより高度の複雑な人間的実践が同じく定着されたものが社会秩序[#「社会秩序」に傍点]である。そして生産が社会に於ける生産であるという処から、それが必然的に政治という形態を取らねばならないのである。法律とはこういう政治制度のための観念的な拠り処に他ならない。――政治学[#「政治学」に傍点]はここに成立する。
法律制度乃至政治制度は、社会の物質的地盤・下部構造である経済関係としての物質的生産諸関係の必然的な結論である。併し、法律制度乃至政治制度は、であるからと言って決して経済関係それ自身ではない。それは経済関係という肉体によって規定されて、初めて一定の形態を取ることが出来る処の、被覆に相当するものである。それは社会の下部構造によって制約されるという意味で、上部構造[#「上部構造」に傍点]と呼ばれて好い。
法律や政治を社会の上部構造として、社会の下部構造から区別する処のものは、下部構造に相応する人間的実践――生産――乃至それが物的体系にまで定着されたもの――生産関係――が、特に優れて意識化[#「意識化」に傍点]されるという条件である。無論人間の実践は、それがどんな生産であろうが、どんな労働であろうが、意識なしには不可能だが、已にそれ自身意識的である処のこの実践が、更に、より高度の複雑した他種類の実践となる迄に、意識化すと、夫が政治的実践となり立法・司法の実践となるのである。で大事なことは、政治や法律が、単に意識的[#「的」に傍点]であるというばかりではなく、或るものが特に意識化[#「化」に傍点]されたものだということである。何かが意識化[#「化」に傍点]されるとは、即ち意識化という過程[#「過程」に傍点]が成り立つということは、まだ意識化されないものが意識化されること、即ちその意味で、意識的でないもの――物質的なもの――が意識的なものになるということである。物質的なものが意識の世界にまで転化するということである。――で法律や政治という上部構造は、かの物質的[#「物質的」に傍点]な下部構造に対して、意識[#「意識」に傍点]・観念[#「観念」に傍点]の性質を有つわ
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