嶋ネ来人の知る処だ。運動とは一定の場所に於ける、物質の存在と非存在、その有と無の絶対的矛盾を現実的に統一し止揚したものだからである。物質が有と無との弁証法的統一であったが、その際場所だとも考えられた物質が、それ自身場所に於ける有と無との統一としての運動となる。だが之は強いて、或る物体[#「物体」に傍点]の機械的[#「機械的」に傍点]・空間的[#「空間的」に傍点]・運動に限って物を云ったわけで、運動はもっと広範な含蓄を有っている。と云うのは物質そのものが変化[#「変化」に傍点]・発展[#「発展」に傍点]・転化[#「転化」に傍点]することが、物質に固有な運動の意味だからである。之は一定状態[#「一定状態」に傍点]の有と無との弁証法として、ヘーゲルが「成」の範疇によって云い表わそうとしたものに相当する*。
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* 但し吾々はここにヘーゲルの弁証法を援用してはいない。ヘーゲルの有→無→成の弁証法にはヘーゲル弁証法に固有な困難がひそんでいることを考えるからである。
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今物体[#「物体」に傍点]の空間的運動については後にしよう。それより先に片づけなければならぬのは、この運動[#「運動」に傍点](変化・発展・転化)する物質[#「する物質」に傍点]の一層の規定である。物質は今や空間[#「空間」に傍点]に於てあり[#「あり」に傍点]、そして夫が時間[#「時間」に傍点]に於て運動する[#「運動する」に傍点]。処が空間という範疇が又対立者の矛盾的統一なのである。空間は或る意味に於ては無いのである。吾々は空間を掴むことは出来ない。それは凡ゆる物体によって自由に占められることが出来る、durchdringen され得る。だがそれでは全くの無かと云えば、物の形[#「形」に傍点]こそ空間なのだ。丁度光のように、それ自身は光っていないに拘らず、之が当ったものを光らせるのである。――時間も亦そうであって、普通時間は流れると考えられるが、それにも拘らず時間は止まっていて物をその上で流すのである。時間は永遠に対する対立物であるにも拘らず、時間そのものは永遠の静止だとも考えられねばならぬ。時間は無始無終の永久に閉じることのない線でなければならぬに拘らず、永遠の静止であるからには、閉じたものでなければならぬ、等々。――そしてこうした空間と時間とが又相互に対立物であり、永久に食い違ったものであるにも拘らず、却って空間的[#「空間的」に傍点]運動に於て現実的には統一されている。
だが以上は、自然弁証法の云わば哲学的な部分[#「哲学的な部分」に傍点]に他ならなかった。自然に於ける哲学的[#「哲学的」に傍点]諸範疇の弁証法性を指摘したに止る。この関係は自然に於ける自然科学的[#「自然科学的」に傍点]諸範疇に於て、より具体的に現われる*。但し範疇=根本概念が実在の反映物である所以は、ここに改めて説明を必要とはしないとして。
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* 弁証法の規定は、質の量への転化とその逆、対立物の統一、否定の否定、対立物の相互浸透、等々として挙げられるのを常とする。今はこの一々の規定に沿うて範疇を吟味している余裕がない。自然科学的世界の統一に於ける弁証法にとって、最も重大と思われるのは対立物の統一であるから、今は夫だけを代表的なものとして採用する。
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物理学的範疇にまで具体化され特殊化せられた物質は、物[#「物」に傍点]である。物は普通物体[#「物体」に傍点]と考えられる。原子論によれば之は微粒子[#「微粒子」に傍点]である。処がド・ブロイやシュレーディンガーによって確立された波動力学によれば、物質は一種の波動の特殊な組み合わせである物質波動[#「物質波動」に傍点]と考えられる。すでに光に就いても粒子(光素)的規定(ニュートン)と波動的規定(ホイヘンス)とが対立していたが、最近まで電磁波及び一般輻射と共に、光は波動的規定を以て理解されるようになっていた。処が、一般にエネルギーが量子[#「量子」に傍点]という一種の微粒性単位を有つことが発見されたことと連関して(プランク)、光粒子[#「光粒子」に傍点]の存在も明らかとなって来た(アインシュタイン)。すると光と物質とはエネルギー一般と斉しく、同一の規定を以て規定されざるを得なくなる。でここから却って、光の波動的性質が、物質にも帰せられ得ることとなった。かくて物質は粒子であると共に波動であるという、歴史的に云って相互に矛盾して相容れなかった規定が、統一されざるを得なくなったのである*。之は一般的に云い表わせば、断続[#「断続」に傍点]と連続[#「連続」に傍点]との弁証法統一を実証するものであって、数学に於ては断続から出発して連続(及び無限乃至超限)を導き出したのはカントルの集合論であったが、今日ではこの二つの規定の対立が、直観の連続に訴える直観主義(ブローエル)と公理体系のメカニズムに訴える形式主義(ヒルベルト)とになって現われている。直観主義の神秘説と形式主義の機械論の矛盾対立を止揚し得るものは、他ならぬ弁証法であるべきだが、今日の数理哲学はまだ之を実証するだけの段階に到着していない。
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* この点に就いては Die Moderne Atomtheorie(〔Heisenberg−Schro:dinger−Dirac〕)1934 参照。
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他方に於て物質は空間に解消されて消滅したと叫ばれた。相対性理論によれば物質や重力・電磁気其の他のポテンシャルは、いずれも宇宙空間[#「空間」に傍点]の各種の曲撓・伸縮に帰せられる。だが実は、この空間(物理的乃至力学的空間)は単なる幾何学的空間とは異って、実はそれ自身物質的な内容[#「物質的な内容」に傍点]を持っている。エーテルという物質概念は第一之に解消されたのであった。力の場[#「場」に傍点]がこの空間の意味であった。そしてこの場こそ又物質の新しい概念だったのである。かくて物質は場の概念によって、空間と統一される。――又相対性理論による空間規定と時間規定との、内部的な連関――対立の統一――は、非常に有名である*。
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* 空間概念の分析に就いては拙稿「空間論」(岩波講座『哲学』の中)〔本全集第三巻所収〕に多少詳しい。――最近の量子力学の発達は併し、自然科学に於ける空間的記述に関する懐疑を産むに至ったことを注意しておかなくてはならぬ。例えば N. Bohr, Atomtheorie und Naturbeschreibung (1931) を見よ。――だが之は思うに、物理学に於ける従来の[#「従来の」に傍点]空間概念が、今や変更されねばならぬということを意味するに過ぎない。
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物・物体は一つの個体である。そしてこの場合の畢極の個体は、広義に於けるアトム(エレクトロン・ニュートロン・ポジトロン・等々)である。アトムとはもはや之を分割し得ないものの謂であった、なる程之が個体(不可分――Individuum)の物理学的な意味だろう。だが生物[#「生物」に傍点]は之とは別な意味に於て、個体の性質を持っている。生物の個体は物理的にはいくらでも分割出来る。細胞は更に原形質や核や染色体や細胞膜其の他に分割できる、等々。だがそれにも拘らず、之は生物学的に一個の不可分な個体、オルガニズム[#「オルガニズム」に傍点]なのである。オルガニズムに於て不可分と考えられるものは、もはや単なる物質乃至物体ではなくて、高度に発達[#「発達」に傍点]した物質の合成による生命[#「生命」に傍点]なのだった。
生命の概念に就いては、機械論[#「機械論」に傍点]と生気論[#「生気論」に傍点]との対立が、或いは非全体説と全体説[#「全体説」に傍点]との対立が、有名であるが、この矛盾の克服は全く、生命現象に対する唯物弁証法の役割による以外に道を残さない。ここでも亦、神秘説と機械論とを止揚統一するものは自然弁証法なのである*。元来生命それ自身がディアレクティッシュなものなので、新陳代謝や疾病治療や、出生死亡等の現象が、常識的に之を告げている。
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* この点に就いては拙稿「生物学論」(岩波講座『生物学』の内)〔本全集第三巻所収〕に多少詳しい。――なお之及び之以外の領域に於ける自然弁証法の諸問題に就いては、拙稿『イデオロギー概論』及び同じく『現代哲学講話』〔何れも前出〕の中の当該項を参照。
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併し物質の第一規定が運動[#「運動」に傍点]であったことを、今思い起こさねばならぬ。と云うのは、物質は変化発展転化するのであった。之こそ物質そのものの弁証法、自然そのもの[#「自然そのもの」に傍点]の弁証法、の第一義的な場合でなければならなかった。宇宙は天体から地球、地球上の諸物質や諸生物(更には人間社会もそうだが)を含めて、時間的過程[#「時間的過程」に傍点]である。宇宙は、物質は、自然は、この歴史的運動[#「歴史的運動」に傍点]をその根本法則[#「根本法則」に傍点]としている。自然の歴史的運動こそ、自然弁証法の最も根本的で最も代表的な場合に他ならない。
時間[#「時間」に傍点]はここに特別な意味を有って来る。時間は哲学者によって様々に考えられている。心理的時間、人間史的(歴史学的)時間、神学的時間、そして物理学的時間。だがこの内根源的なものは最後の物理学的時間であって、他の時間観念も実はここから導かれるのである。この宇宙的時間[#「宇宙的時間」に傍点]こそ、一切の存在(自然ばかりでなく人間社会の歴史までも含めて)の秩序[#「秩序」に傍点]を与える処のものなのである。之が自然弁証法の云わば脊髄に相当する。――処で自然科学によって見出される自然の諸法則[#「諸法則」に傍点]は、いずれもこの宇宙的時間に於て行なわれる。なぜなら、自然の根本法則[#「根本法則」に傍点]とは、この自然の変化・発展・転化の運動に於ける自然弁証法のことだったから。
だがこの宇宙的時間に於ける根本関係を云い表わすこの根本法則(夫が即ち自然弁証法の本格的な場面だったが)は、二つの問題を有っている。一つは因果性[#「因果性」に傍点]であり、一つは宇宙の進化理論[#「進化理論」に傍点]なのだ。――因果性は歴史的存在の不可欠な内部構造であると云わねばならぬ。歴史的過程がただの並置の秩序から区別されるのは、それが正に過程[#「過程」に傍点]であり変化[#「変化」に傍点]であり、その意味に於て前後の間に一定の連続的な関係[#「連続的な関係」に傍点]が横たわる、ということによってだ。宇宙的時間は連続している。この過程・変化・連続の上に立って、一切の現状維持も静止も切断も可能なのだが、そうしたものが可能であるのは、全く宇宙的時間が線を引く歴史[#「歴史」に傍点]の連関によることだ。でこの前後の連続的な(不連続も亦その上で初めて成り立つ)関係が、一般に因果性[#「因果性」に傍点]ということなのである。――因果性を機械論的に理解すれば、それは決定論乃至宿命論となる。夫によれば、一切の個々のものが、機械的必然性[#「機械的必然性」に傍点]によって、絶対固定的に[#「絶対固定的に」に傍点]規定されつくされる[#「つくされる」に傍点]、ということが、因果性=因果必然性だと考えられる。だがそういう形而上学的な因果必然性の観念は、ハイゼンベルクの量子力学の原理にぞくする不確定性原則によって、成り立たないことが証明されるに至った*。因果性は、唯物弁証法によって一般に明らかにされている必然性[#「必然性」に傍点](それは偶然性[#「偶然性」に傍点]乃至可能性[#「可能性」に傍点]を貫く本質的[#「本質的」に傍点]で現実的[#「現実的」に傍点]なモメントのことだ)の、一つの物
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