くのナンセンスであるが、従って、科学的世界を特徴づけるこの自然弁証法や史的唯物論が、科学的研究に於て持っている実際的な方法[#「方法」に傍点]としての役割を忘れるならば、之又全くのナンセンスである。デボーリン自身は、方法論主義だといわれるにも拘らず、却って科学に於ける実践的[#「実践的」に傍点]研究方法の意義を強調し得なかった[#「なかった」に傍点]。夫が所謂客観主義[#「客観主義」に傍点]に堕する所以である。彼は科学に於ける弁証法的方法を、単に、対象の発展過程をひたすら複製[#「複製」に傍点]すべく観想[#「観想」に傍点]する処の客観的[#「客観的」に傍点]方法だと云っている(N. Adoratzki, Lenin, Aus dem philosophischen Nachlass−Einleitung)。
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自然弁証法や史的唯物論なるもの自身が併し、すでに実は自然科学や社会科学に於ける思惟を一般的に[#「一般的に」に傍点]云い表わしたものだった。夫はその限り丁度思惟の弁証法がそうだったように、夫々の個々の具象的な科学的諸認識から抽出された産物としての一般者だった。で思惟の弁証法(唯物弁証法一般)が自然弁証法や史的唯物論に先立つと考えてはならなかったように、後の両者は又夫々、自然科学的諸認識や社会科学的諸認識に先立つことは出来ない筈だ。自然弁証法や史的唯物論がまずあるのではなくて、そういう諸科学の一般的な思惟法則(だが之は実は又自然や社会そのものの法則でもあったのだが)を産む処の、個々の科学的諸認識が(個々の自然現象や個々の社会現象が)、まずあるのである。
だが夫にも拘らず、自然や社会の個々の諸現象の経験から、一定の個々の科学的諸法則[#「諸法則」に傍点]が抽出され、そして今度はこの個々の諸法則が却ってその後の経験を指導・統制・統一して行くのでなければ、科学的進歩はないが、丁度夫と同じに、こうした個々の経験及びこうした個々の諸法則から、科学的な一般的根本法則[#「一般的根本法則」に傍点]としての自然弁証法や史的唯物論が抽出導来された揚句は、却ってこの自然弁証法や史的唯物論が、その後の個々の経験と個々の科学的諸法則とを、指導・統制・統一して行くことが出来る筈であり、又そこまで行くことが諸科学の認識にとって絶対に必要なのである。――今日の科学は、たとえば自然科学などの例で明らかなように、まだ必ずしも専門家によって之を自覚される処にまで行っていない。之は却って寧ろ、自然科学の特殊現象で、夫が異常に急速に発達した(十九世紀後半を一期として二十世紀の今日までを二期として)結果だと見るべきだろう。が之によって自然弁証法という統一的な自然科学的世界のシステムが不可能であったり不用であったりすることにはならぬ*。自然科学は今に、みずから自然弁証法の不可欠な必要を、自覚[#「自覚」に傍点]せざるを得なくなるだろう。尤も実際には、之まででも又現在でも、自然科学者自身の自意識如何に拘らず、自然科学に於ては自然弁証法が必要にされているばかりでなく、現に不完全な形で以てさえ、敢えて用いられているのであるが。
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* 自然弁証法は体系を持たない、と主張する人があるかも知れぬ。だがその意味は固定した図式を持たぬということであって、展開し連関する機構を持たぬということではあり得ない。そして後のものこそ、本当のシステムの意味だ。雪達磨は固定した図式は持たぬ、であればこそ転がる過程に於て自分自身を太らせて行くシステムを持っている。科学に於ける体系はいつもこの意味のものだ。だから体系[#「体系」に傍点]と方法[#「方法」に傍点]とは、本質上同じだということを注目しなければならぬ。――後の参考のために。
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こうした根拠に基いて初めて、吾々は自然弁証法や史的唯物論を、一般的に[#「一般的に」に傍点]語る権利を受け取る。丁度吾々が、唯物弁証法を一般的に[#「一般的に」に傍点](思惟一般の弁証法として)論議する事がいつも可能であるように。――だがこのことは、もう一遍断っておきたいが、唯物弁証法一般を「具体化」(適用・応用・特殊化)すことによって自然弁証法や史的唯物論を導き出して、それから之を論議しようということではない。正にその逆である。丁度、自然弁証法とか史的唯物論とかいう抽象物[#「抽象物」に傍点]を具体化すことが、この意味に於ては無意味であって、実は自然科学や社会科学の諸認識内容を、自然弁証法や史的唯物論に迄体系的に発展させ、ただその意味でだけ之を具体化[#「具体化」に傍点]す事によって、却って、初めて自然弁証法や史的唯物論を抽出[#「抽出」に傍点]し得るように*。夫々の科学的認識を体系化し発展させることによって、そこから抽象し出されるという意味に於て、自然弁証法と史的唯物論とは、夫々自然科学的世界と社会科学的世界との、特徴[#「特徴」に傍点](そういう抽象された代表部分)を云い表わす、というのである。
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* 自然弁証法の「具体化」が自然弁証法という与えられたテーマ[#「テーマ」に傍点]・話題[#「話題」に傍点]を具体的にするということであれば、それはそれでいいのであるが。
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では自然弁証法と史的唯物論との連関はどうなっているか。――云うまでもなくそれは自然と人間史的社会とを、自然史が貫いている、という実在の連関に帰結するのである。進化論(博物学的自然史)が自然弁証法の最も現象的に見易いそして又最も含蓄のある場合であるのだが、史的唯物論はマルクスの有名な説明によれば、人間社会に関するそうした自然史(博物学)とも云うことが出来る。無論両者に於ける根本的な区別は限りなくあるし、又実は極めて重要なのではあるが(そうしないと生存競争や自然淘汰で社会現象を説明されたりしては無産者は泣き面に蜂だ)、併し両者に於ける根本的な同一(対立を貫く同一)が今必要だ。弁証法的唯物論に立てば、このことは常に忘れることを許さない根本テーゼであった。
処が、或る種の「マルクス主義者」達は、史的唯物論以外に弁証法的唯物論を認めようとしない。即ち自然弁証法(エンゲルスの言葉をそのまま使えば「自然の弁証法」)は之を認めないのである*。或いは一応認めるにしても、之を自然科学[#「科学」に傍点]という人間社会の歴史的所産(イデオロギー)に於ける弁証法として認めるか、そうでなければ、自然に関する弁証法という人間的認識乃至主観的態度としてしか認めない**。自然そのものに弁証法があるとか、弁証法が自然そのものの根本法則であるとか、云うのは、弁証法を不可知なものにする神秘化[#「神秘化」に傍点]であって、却って形而上学的な仮説でしかない、というのである。
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* 〔G. Luka'cs〕, Klassen und Bewusstsein や K. Korsch, Marxismus und Philosophie, 所謂三木哲学、などに見られる唯物史観主義が之である。ここから又、マルクスは深遠であったがエンゲルスは浅薄であるとか、マルクスとエンゲルスとでは見解が矛盾しているとか、という批判も発生する(因みに、マルクスが自然科学に就いて無関心であったという種類の見解が、如何に理由のないものであるかは、リャザーノフがエンゲルス『自然弁証法』の解題で証明している)。――エンゲルスは「自然の弁証法」の他に「弁証法と自然科学」「自然研究と弁証法」というような表現を用いている(前出リャザーノフの「解題」参照)。なおE・デューリングは『自然的弁証法』(〔natu:rliche Dialektik〕)なる書物をエンゲルス以前に書いている。
** 弁証法を主観と客観との間に於てしか認めない田辺元博士や西田幾多郎博士の理論は、之にぞくするか又は之に帰着する。前者はその意味に於て、「自然の弁証法」は認めるが所謂「自然弁証法」は成り立たないと主張する。
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のみならずこの種類の意見が、自然科学者自身によっても、最も屡々懐かれるものだという点は、注目に値いする。自然弁証法であろうと無かろうと、自然弁証法を用いようと用いまいと、夫が自然科学の研究にとってどれだけの違いがあるのか。自然弁証法などというものは元来有害であるし、もし又仮に有害でないとしても、少なくとも無用の長物ではないか、と多くの自然科学者はいうのである。こうした自然科学者の常識的[#「常識的」に傍点]な見解は、云うまでもなく、例の自然弁証法否認論者の一つの支柱となっている。――併し私は今はここでこうした自然科学の専門家達の、職業的な蒙を啓こうとは思わない。それは事実決して容易な仕事ではないからだ。又私はここに弁証法的唯物論の定説を展開する余裕を有たないから、弁証法的唯物論の歪曲に基く処の、例の自然弁証法否定論者を説得しようとも思わない。私は寧ろ逆に、何故自然弁証法が成り立ってはならない[#「ならない」に傍点]と考えねばならぬか、の説明の責を彼等に負わせる権利を有つと思う。なぜなら、一体彼等は、統一的[#「統一的」に傍点]な自然科学的世界観をば何と名づける心算なのだろうか、と問いたいからである。今私が説明の責を負うべきものがあるとすれば、夫は自然弁証法と史的唯物論との連関[#「連関」に傍点]に就いてである。
自然弁証法は自然科学的世界[#「世界」に傍点]を云い表わすものであったが、この科学的世界なるものは、元来実在を模写[#「模写」に傍点]した最後の帰着点[#「最後の帰着点」に傍点]であった。だから自然弁証法は、自然そのものの[#「自然そのものの」に傍点]科学的なコピーの畢極《ひっきょく》段階であった。従って自然弁証法はまず第一に自然そのものの根本的な一般的な規定を指示し云い表わさねばならぬ。それはまず第一に自然の最も根本的な普遍的な法則[#「自然の最も根本的な普遍的な法則」に傍点](之を広くその運動法則と云っていい)を意味する。自然の畢極段階[#「畢極段階」に傍点]に於けるコピー一般が自然弁証法だったから、自然そのもの[#「自然そのもの」に傍点]がこの弁証法を、その根本的な一般的な規定として、即ち法則[#「法則」に傍点]として、持っていなければならぬというのである。その限り、之は決して歴史的社会にぞくするものではなくて、存在上それに先立つ処の自然そのものにぞくする。
もし自然そのものにない処の弁証法が、自然科学的世界の根本特徴[#「根本特徴」に傍点]をなすというようなことがあるならば、自然科学は自然そのものとは全く別個な何ものかを特徴づける処の科学になって了う。自然科学はどういう権利を以て、自分自身が与え自分自身が特徴づけるものが、自然そのものではない[#「ない」に傍点]ということを証明し得るのだろうか。
処がそれにも拘らず、自然弁証法によって特徴づけられるこの自然科学的世界は、科学的方法と科学の社会的諸規定(含蓄ある意味でのイデオロギー性)との、人間史的所産であった。して見れば自然弁証法は、単に自然そのものの根本的一般法則であるだけではなく、自然に関する認識[#「認識」に傍点]の、自然科学[#「科学」に傍点]の、根本原則でなくてはならぬ。即ちこの場合の自然弁証法は、一方に於ては自然科学の一般的な方法[#「方法」に傍点](従って又体系[#「体系」に傍点])を指し示すと共に、他方に於てかかる方法による体系としての自然科学が一つのイデオロギー(社会構造に於ける上層の存在)にぞくする所以をも、その内に含蓄しているわけである。でこの点から規定すれば、自然弁証法は、自然そのものの[#「自然そのものの」に傍点]弁証法であるばかりでなく、自然科学の[#「自然科学の」に傍点]弁証法だと云わねばならぬ。――而もこの二つの規定(自然そのもの
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