アカデミー」に傍点](支配者的な又は在野の又は対立科学的な)のものであり、之に反して常識はジャーナリズム[#「ジャーナリズム」に傍点]のものだと云ってもいい*。
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* ジャーナリズムの意義に就いて今茲に述べる余裕のないのは残念である。ジャーナリズムの観念程今日鈍重に機械的にしか理解されていないものは、又とない。甚だしいのになると、之をブルジョア的大出版事業や之に基く文筆稼業のことだと決めてかかる場合さえあるのである。だがジャーナリズムの歴史的な本質はクリティシズムと常識とへの関係の内に横たわる。その社会的現象形態のごく現象的に著しいものが今日のブルジョア社会に於けるそうした所謂「ジャーナリズム」であったに過ぎない(ジャーナリズムについては、拙著『イデオロギー概論』と『現代哲学講話』〔いずれも前出〕の内を見よ)。
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尤も或る一人の人間に就いて、彼が学者であるかジャーナリストであるか、学究家であるか批評家であるか、を決定することは困難であるばかりでなく又無意味でもあるように、常識と科学との実際的な連絡はこの区別によって払拭されるのではない。両者の連関の個々の項目に就いては今は省略しなければならないが、それにも拘らず、少くとも、常識を如何に常識として蓄積しても夫だけでは専門の科学的知識は高まらないと同じに、専門の科学的知識を科学的知識として如何に蓄積しても、夫だけでは常識は決して高まりはしない。専門家であればある程非常識になるということもなくはない。――で、常識は普通考えられているように、何か平均的[#「平均的」に傍点]な科学的知識などではないのである。即ち何かそれだけ不完全な至らない低度の知識のことではないのである。仮にもしそうだとすると、常識そのものの高低ということは不可能になるからだ。平均の平均とは無意味である。高い常識ということは矛盾でしかなくなるからだ。それより寧ろ常識は、与えられた諸知識の周到に統一的な、そして日常的社会生活に就いて最もアクチュアル[#「アクチュアル」に傍点](現実的=時事的、時局的)な、総合のことでなくてはなるまい。
それ故こういうことになる。科学が社会に於て日常的となりアクチュアルとなるためには、科学は常識化[#「常識化」に傍点]されねばならない、と。そんなことは判り切ったことで、同語反覆にすぎぬではないか、という人がいるかも知れぬ。だがそうではない。ここで常識化というのは、必ずしも科学の例の大衆化のことでもなければ啓蒙のことでもない。まして例の通俗化のことでもない。そういう連関に於ける関係はその場合に論じたのであって、今はもっと別な場面に就いて述べているのである。――科学の常識化とは、クリティシズム(批評・評論)の立場から、即ち私が想定する限りの意味に於けるジャーナリズムの立場から(ジャーナリストの最後の意味が評論家にあるということは広く認められている)、つまり要するに常識[#「常識」に傍点]の立場から(無条件に科学自身の立場から、ではない[#「ない」に傍点])、科学そのものを、科学の諸成果を、取り上げることを云うのである*。
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* 評論はその対象が科学であろうが何であろうが、いつも文学的乃至モーラリスト的な資格を有っている。之が普通の研究論文[#「研究論文」に傍点]などと異る点だ。そして又ここに、文学が他の文化領域相互間の媒介者として有つ普遍的な機能があるのである。――文学は小説や詩や戯曲のことばかりではない。科学時評[#「科学時評」に傍点]なるものの意味さえも亦、ここに明らかである。
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この意味に於ける常識化によって初めて、科学は単なる科学自身の立場からは判らぬその社会的機能[#「社会的機能」に傍点]を明らかにされる(科学が社会的に存在し得るのは、云うまでもなくそれが一定の欠くべからざる社会的機能を営むからだ)。科学と他の諸文化との連関も亦、ここで初めて問題として正当に提出されるのである。文明批評の観点を離れて科学の批評は不可能だ*。こうした「常識化」の手続きを経ないで、直接無条件に科学そのものの切断面から社会や文化を議論しようとするから、科学専門家の哲学や世界観が往々にしてナンセンスに陥らざるを得なくなるのである。
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* この『科学論』自身も亦、こういう観点に立って初めて意味を有つのである。
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科学の常識化、科学に対する評論、之は恰も近代哲学[#「哲学」に傍点]の最も好んで取り上げたテーマである。だからそういう哲学は多くクリティシズム(批判主義)を名乗ったのだった。但しこの種の(ブルジョア観念論的)科学批判が失敗しなければならぬ所以を、吾々はすでにこの書物の初めの部分に於て見た。だが今にして云えば、その場合の科学の批判に於ける、常識化のその常識自身が、単に「哲学的」なアカデミーのもので、まだ評論的[#「評論的」に傍点]な資格を有つに至っておらず、従って例えば、科学の大衆性[#「大衆性」に傍点]などに就いて何等の見識をも有ち得なかったからだったのである。つまり科学の社会階級性を抜きにして科学を批評し得ると考えるような科学批判は、科学の「哲学的」批判ではなかったということである。
さて、以上科学の社会的諸規定に就いて見て来たが、大事な点は、この社会的[#「社会的」に傍点]諸規定が、科学の論理的[#「論理的」に傍点]規定と噛み合わされた夫の等価物だった、ということである。社会的規定と論理的規定とは独立な二つの規定ではない。云わば対立した而も一個[#「対立した而も一個」に傍点]の規定だったのである。――だから科学のこの社会的諸規定は又、科学の方法(夫は科学の論理的規定を代表する)と独立なものではなかったわけで、科学の社会規定と科学の方法とは、之亦、科学の云わば対立した而も一個[#「対立した而も一個」に傍点]の規定だったのである。吾々は夫をすでに、科学に於ける認識構成[#「認識構成」に傍点]という名で呼んでおいた。
処で科学に於けるこの認識構成[#「認識構成」に傍点]が、科学に於ける実在の模写[#「実在の模写」に傍点]の実質であることは最初に述べた。ここでも亦二つは、対立した而も一個の規定だったのである。そしてこの最後の規定が、科学の世界[#「科学の世界」に傍点]、科学的世界[#「科学的世界」に傍点]である。そこには、実在[#「実在」に傍点]=科学の方法[#「科学の方法」に傍点]=科学のイデオロギー性[#「科学のイデオロギー性」に傍点]=対象[#「対象」に傍点]という、科学の体系[#「体系」に傍点]が実現される。つまり実在の反映としての科学[#「実在の反映としての科学」に傍点]の全貌が、そこにあるのである。自然科学的世界としては自然弁証法[#「自然弁証法」に傍点](自然唯物論[#「自然唯物論」に傍点]と呼んでもいいかも知れぬ)、社会科学的世界としては史的唯物論[#「史的唯物論」に傍点]=唯物史観[#「唯物史観」に傍点](歴史弁証法[#「歴史弁証法」に傍点]と呼んでもいいだろう)。最後に之を見よう。
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六 科学的世界
科学が実在を認識(=模写・反映)する最後の段階、その総結果、夫が科学の「世界」、科学的世界[#「科学的世界」に傍点]である。之は科学的諸世界像の統一のことであり、科学的世界観の客観的内容のことである。実在そのものが唯一無二の世界である通り、之も亦唯一無二のものでなければならぬことが、その理想である。客観的真理[#「客観的真理」に傍点]の内容が之だからである。――処が、存在が自然と歴史的社会とに区別されるように(そして区別の実在的根拠とその連関とをすでに述べた)、科学も亦自然科学と社会科学(之には歴史科学其の他が含まれる)とに、根本的に区別されねばならぬ。その所以も亦すでに述べた。そこで科学的世界も亦、自然科学の夫と社会科学の夫とに、一応根本的に区別されることが出来る。前者の特徴を云い表わすものが自然弁証法[#「自然弁証法」に傍点]で、後者の特徴を云い表わすものが史的唯物論[#「史的唯物論」に傍点](唯物史観)である。
自然弁証法と史的唯物論との連関は、他ならぬ唯物弁証法[#「唯物弁証法」に傍点]乃至弁証法的唯物論[#「弁証法的唯物論」に傍点]によって与えられる。正当な意味に於ける唯物論、或いは正当な意味に於ける弁証法が、両者の統一媒介を可能にする。そういう意味に於て、自然弁証法と史的唯物論とは、弁証法的唯物論の、夫々自然と社会とに就いての、二つの部門であると云っていい。――だがここにすでに問題が横たわっている。
云うまでもなく吾々は、唯物弁証法一般[#「一般」に傍点]なるものを考えることが出来る。吾々は之を使って物を考え又物を云わねばならぬと考える。之は明らかに、まず第一に思惟[#「思惟」に傍点]の法則としての唯物弁証法だ。処でこの思惟法則が自然に就いての自然科学と、社会に就いての社会科学とに、夫々適用される時、夫が自然弁証法と史的唯物論だ、という風にも考えられる。つまり唯物弁証法には三つあって、思惟の弁証法と、之が特殊化(具体化・適用・其の他)された自然の弁証法と、社会の弁証法とに区別される、ということになる。
だがこの云い方には或る根本的な誤りを暗示するものが含まれている。云い方は実はどうでもいいのだが、その云い方から惹き起こされる色々の帰結に、重大な誤謬が混入して来るのである。元来思惟が思惟であるためには、ただの観念や表象や又空想であってはならないので、云うまでもなく認識でなくてはならぬ。と云うのは、実在の反映・模写でなければならなかった。そうすると、思惟一般の根本法則(夫が唯物弁証法一般だったわけだが)は、無論この実在の根本法則に照応すればこそ、初めて思惟[#「思惟」に傍点]の根本法則でもあり得たわけだ。従って、思惟一般は、最初からそれ自身としてまず横たわる処のものではなくて、却って実在の具象的な諸認識、人類の総経験、の歴史的所産として初めて抽出された、一結果に他ならない。之は一切の認識がそれに基く処の想定ではあるにしても、この想定自身が却ってこの一切の認識の所産だったのである。して見るとここから明らかなように、思惟一般の弁証法がまず第一にあって、夫が自然に関する又社会に関する思惟にまで適用されて初めて、自然弁証法と史的唯物論とが成立するかのような[#「かのような」に傍点]云い表わし方は、何と云っても誤りでなくてはならぬ。
実はまず初めに自然弁証法と史的唯物論とが何等かの過程を通じて(ここにも亦同じ形の問題が伏在しているが)、成り立つべきであって、それからの抽象物として初めて、思惟一般の弁証法が成り立つ、という風に云わなくてはならぬ。そうしないと、認識=思惟が実在の反映であるという唯物論的な認識理論の根本が、正当な権利を主張出来なくなるからだ。つまり夫だけ弁証法に対して観念論的な見解を混入することになるからである*。
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* 思惟一般の根本法則としての唯物弁証法一般をまず想定しておいて、之を自然に対する思惟(自然科学)や社会に対する思惟(社会科学)に適用しようと考えれば、それが可能であるためには、弁証法はこの二つの科学に於ける天下り式の方法[#「天下り式の方法」に傍点]である他はなくなる。科学に於けるこの天下り式方法を自然弁証法や史的唯物論だと見做すのが、デボーリン主義として批判された方法論主義[#「方法論主義」に傍点]である。――だがこのことは、自然弁証法や史的唯物論が持っている科学の実際的な方法[#「実際的な方法」に傍点]としての意義を、少しでも軽んじるということではない。科学の方法によらずには何等の科学的世界も成り立たない。科学的世界に於ける方法の最も重要な役割を見落すことは全
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